「悪は存在しない」(2023/Incline)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
大美賀均 西川玲 小坂竜士 渋谷采郁 菊池葉月
三浦博之 鳥井雄人 山村崇子 長尾卓磨 宮田佳典
おすすめ度…★★★☆☆ 満足度…★★★★☆
この映画についてネタバレ回避で語るというのは実に難しい。
薄暗い森の空を見上げて歩く(おそらく)冒頭の長回しのシーン。
その空からは木漏れ日が差し込むどころか、どんよりとした白い空だった。
もしかしたらあの最初の数分がすべての答えだったのかなと思った。
作品を観終わったときの何とも言えない胸くその悪くなるような虚無感は、あの短いエンドクレジットの時間だけでは薄められない。
きっとスクリーンを後にした観客のほとんどがそんな感覚だったのではないか。
キーワードとなるのは<半矢の鹿>のエピソード。
野生の鹿は人間を襲わない、ただし半矢の鹿は我が子を守るために…。
長野県のある自然豊かな村で暮らす巧と一人娘の花。
その日常はひたすら薪を割り、湧き水の流れる小川から水を汲んで運ぶ。
それが当たり前の日課。
そんな村に東京からグランピング施設の誘致のためにある芸能事務所の担当者が説明会にやってくる。
しかもグランピングのノウハウもなくコンサルタントに丸投げのコロナ禍の補助金目当ての事業展開だ。
説明会の担当としてやってきたのは、本業は芸能マネージャーの高橋という男と介護職から転職した女性の薫。
二人は巧たちの真摯な意見に耳を傾け、この事業そのものが間違っているのではないかと感じる。
東京に戻ってのミーティングでは社長とコンサルタントから事業の継続を押し付けられ、巧をグランピング施設の管理人になってもらうよう説得を試みる。
そんな二人を地元の水を活かしたうどん店に誘う巧。
自然を守るためにはまず水が大切であり、その水は上流から下流へと流れるのだから、山で暮らす人間にはそのすべてに責任がある。
後半は高橋と薫が巧たち山で暮らす人々に共感を抱き、逆に村での生活に思いを馳せるようになる。
作品のタイトルである「悪は存在しない」はそういうことかと納得しかけたところで花の失踪事件が起こる…。
ラストシーンの解釈は難しい。
すべては観客に委ねられたのかと思うが、それまでのストーリーの中で明示された事実の検証かもしれない。
前述の<半矢の鹿>のエピソードがここで思い出される。
巧が認識していた現実と実際に目の前で起こった事実との乖離を埋めるための行動か。
そもそもあのラストシーンのその後は分からない。
それを証明するように男は一度立ち上がってから倒れる。
ただしあのラストシーンがオープニングの白い空と連動しているとするとストーリー構成としては合点がいく。
そもそも映画はただ楽しむだけのではない。
映画は暗闇の中で虚構を観て考えるものであり、自らの人生の写し絵として再考する過程で、スクリーン上で自らと重ね合わせた登場人物たちを解き放つカタルシスを熟考するものだと思う。
そういう意味ではこの「悪は存在しない」という作品は実に不親切だと言わざるを得ない。
好きな作品だけど、何度も観たい作品ではない。
主人公の巧を演じた大美賀均はロケハンで濱口監督と同行したスタッフだと聞く。
一人娘の花を演じた西川玲はきっと数年後には素敵な若手女優になっているか、このまま第一線から退くかのどちらかではないだろうか。
社命を受けて再び山村へ車を飛ばす高橋と薫の道中の会話は「ドライブ・マイ・カー」を彷彿とさせる。
ただ今回は一人も著名な役者が登場しない作品であり、どこか監督の自主映画的な雰囲気も感じられて、1970年代以降の低迷期から長年日本映画を観てきたひとりとして、こういう映画がもっと話題になるようになってほしいと改めて思った。
こういう作品と出逢うたびにつくづく思うのは昨今のシネコンシステムの弊害。
ゴールデンウイークは映画業界の興行のために生まれたことは知っているけれど、そんなゴールデンウイークの期間にシネコンのスクリーンを席巻するのはアニメーション作品やハリウッドのエンタメ作品ばかり。
いまさら憂いても仕方ないのかもしれないけれど、映画の楽しみ方をもっと多くの人に知ってもらう術はもうないのだろうか。
関東エリアだけ見ても都内ですら二館のみ、我が群馬は幸いにして前橋と高崎の二館で上映。
前作でアカデミー賞をとった監督の作品なのに…。
前橋シネマハウス シアター0