冬木弘道、没後10年 | 方舟鉄道「かもめ26号」

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10年前の今日、3月19日。




【理不尽大王】プロレスラー・冬木 弘道が逝去しました。享年42歳。






冬木さんのエピソードを語る上で、欠かすことの出来ない人物が、2人います。




【三沢 光晴】と【橋本 真也】。




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2002年4月7日、プロレスリング・ノアで15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示する。




だが、その2日後、冬木軍主催興行の試合後に大腸癌を理由に引退表明を行 う。その一報と病状を聞いた三沢は、WEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、ディファ有明のたまたま開いていた4月14日をすぐさま確保、冬木の引退興行を開催することを発表し、ノアの全面協力を受けて、冬木はリングで引退試合を行った。

なお「ガンによる引退」という引退発表はあまりにも唐突なもので、それまでの冬木が演じてきた理不尽ギミックもあって、当初は「アングルではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していた。だが、その直後に『引退』からの安易な『復帰』というアングルを極端に嫌うことで知られていた三沢光晴が、冬木のための引退興行を急遽組んだのを見て、引退が真実であることや冬木の病状の深刻さを多くのファンも察することになった。この引退試合のためにノアはファンに向けて黄色の紙テープを持参するように協力を依頼し、試合開始前 の「冬木弘道」コール後、無数の紙テープが飛んだ。(なお10カウントはWEW川崎球場大会で行う為、この日は行われなかった。)この時の収益金は全て冬木に贈られた。また、引退興行にはノアの内外から多くのレスラーが協力しており、さらに会場には、新日本の永田裕志、FMWで袂を分かっていた邪道&外道、さらには天龍までもが現れた。

その後、5月5日に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍。だが、ガンは肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、横浜市民病院でがん性腹膜炎のため死去、42歳没。葬儀の場では、GOEMON、アングル上ほとんど敵対関係であったハヤブサまでもが号泣していた。

2003年5月5日の川崎球場で一夜のみ復帰、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可をもらい、橋本に直談判をして対戦許可をもらっていた。




なお大会では、橋本は金村キンタローと電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように、冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。
(Wikipediaより抜粋)
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三沢さんと冬木さんは、全日本プロレス時代からの同僚で、越中詩郎と仲田龍を加えた4人で、よく遊んでいたとのこと。




冬木さんがSWSへ移籍してからは、疎遠になっていましたが、三沢さんがノアを旗揚げしてから、再接近。前述の一騎打ちを実現させました。




三沢さんが冬木さんの引退と病状を聞き、ノア主体での引退試合開催を即決したという話は、2009年に三沢さんが他界された際にも触れられていましたから、ご存知の方も多いでしょう。






橋本さんとの絡みは、冬木さんの引退後からでしょうか。どういう経緯で対戦直訴に至ったのか、今一つわかりませんが…




病を圧して自分に対戦要求をぶちあげてくる先輩レスラーの熱意に敬意を払って、対戦を受諾したのでしょう。




しかしその対戦は、冬木さんの突然の死により、実現することはありませんでした。前述の「遺骨を抱いて電流爆破に身を投じた」エピソードも、橋本さんの逝去に際して、語られました。




また、橋本さんは、冬木さんの未亡人(薫夫人)を自らの伴侶として迎えるなど、冬木家との交流を続けていましたが、2005年に他界…






YouTubeで、当時の試合を探してみようかな(^^;






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