日本航空123便墜落事故とオスプレイと脱原発 | 私にとって人間的なもので無縁なものはない

日本航空123便墜落事故とオスプレイと脱原発


慰霊登山 故人と対面 日航機墜落事故27年(東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20120813/CK2012081302000117.html
 日航ジャンボ機墜落事故から二十七年を迎えた十二日、墜落した上野村の「御巣鷹の尾根」へ慰霊登山した遺族たちは、標高約千五百メートルの「天国」へと続くかのような険しい山道を一歩ずつ踏み締め、墓標で故人と念願の対面を果たした。 (池田一成、菅原洋)
 一九八五年八月十二日午前八時十五分ごろ、長男の会社員新田改三さん=当時(26)=を奪われた母の桂子さん(77)=広島県三原市=はなぜか胸騒ぎがした。
 改三さんの会社に電話すると、「これから出張する」。同日午後十二時十五分ごろ、墜落機に搭乗前の改三さんから「今日は忙しくて話す時間がない」と最期の電話があった。
 「あの時無理にでも、もっと話し掛けていたら」-。その後悔を、桂子さんは二十七年間引きずってきた。
 桂子さんは家族と墓標に改三さんが好きだったたばこに点火して供え、「弟三人の面倒をよくみてくれ、就職してからは帰省の度に親に小遣いを渡す息子だった」と目にうっすらと涙を浮かべた。
 宝塚女優だった吉田由美子さん=当時(24)=を失った横浜市の母公子さん(78)は毎年、夫の俊三さんと慰霊登山をしてきたが、昨年五月にがんで亡くした。娘の芸能界入りに尽力してくれた社長も数年前に他界し、「次々と人が亡くなり、寂しくなった。私もいつまで登れるのか」と心配する。
 「(娘は)宝塚に行く前は器械体操をやっていたが、ロンドン五輪の競技を見る度に、当時の姿を思い出す」と目を細めた。
 墜落機の高濱雅己機長=当時(49)=の妻淑子さん(68)=千葉市=は家族と、かつて同僚の航空機関士だった藤川秀男さん(77)と登山。家族には、パイロットや客室乗務員がいるなど飛行機との縁は今も続く。淑子さんは「事故以来、二度とあのようなことがないように空の安全を願ってきた」。また今回は孫の優人ちゃん(2つ)や真琴ちゃん(4つ)を連れてきたといい、「子どもたちの元気な姿を(機長に)見せることができた」と微かに笑みを浮かべた。

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日本航空123便墜落事故 - Wikipedia 


Japan Airlines Flight 123 Accident (12 Aug 1985) - Cockpit Voice Recorder [English Subbed]

http://youtu.be/Xfh9-ogUgSQ


日航ジャンボ機墜落事故 "最後の交信記録" 2000.8.13放送

http://youtu.be/lZIJZ3vTD0c


当時に放送されたJAL123便飛行機事故ニュース

http://youtu.be/R7nAQ5L0Umg


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マリコ
津慶
知代子
どうか仲良く がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様 たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは
最后とは
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ
飛行機は まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった
と感謝している

(´;ω;`)


危険・閲覧注意 子供さんは見ないでね!
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■アントヌッチ証言全文(新・日本の黒い霧)
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/acea0c09dd04784b61172500fc4edc23
日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプスhttp://www.stripes.com/」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

(図:米軍のC130輸送機)

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている
------------------------------(ここまで)------------------------------

以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記します。

1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
 が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
 123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
 →私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思います。理由は次回以降に
  論証する予定です


朝日新聞1990年10月14日朝刊に掲載された謎の物体
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資料①は倉庫にあった落ちた尾翼部分
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ぶつかったと見られるミサイル(標的機)

日航ジャンボ123便 垂直尾翼にオレンジエアが刺さっているカラー写真
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日航ジャンボ123便の垂直尾翼の写真 鶴丸付近に、オレンジ色の破片が突き刺さっているのが確認できる。


2007.04.04 Wednesday  [裏・闇を照らす目]
御巣鷹山日航ジャンボ機事件の真相 4つの目で世の中を考える より
http://310inkyo.jugem.jp/
たまたま自衛隊員が真実を語る
・当時から今日まで友人が語ってくれた話がどうしても私の脳裏から離れる事ができないのです。事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話です。友人は、私(普通の一般人)に対して嘘をつかなければいけない理由なんてないだろうし、そして、まだ事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と言っていました。当時まだ事故から数週間しか経っていない時にそう言ったのが当時、凄く印象的でした。もちろん当時私は半信半疑でしたが、今考えても彼が私に嘘を語る理由もないし、嘘の話をしたところでなんにもないのです。ただ、彼も自分が知っている事を誰かに話したかったんだと思います。そして、一般隊員(だと思います)の彼が知っているくらいだから、当時○○隊内ではこの話を知っていた人は結構いたのではないでしょうか。私がこの話を投稿(このような話を真実と確認していないのにいいのかと迷いましたが、聞いた話は本当だったので)したのは、「8・12連絡会」が発行した「旅路」を目にしたからです。
・実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。


中曽根康弘元首相のつぶやき ~日航機墜落事故などについて~
http://www16.atwiki.jp/911next/pages/15.html
「ふぅー」
迎え火の煙の行き先をぼんやりながめながら、中曽根は大きなためいきをついた。

またあの8月12日が訪れようとしている。

 「あの時代は、あー、するしかなかったんだよ」と何度も自分に言い聞かせるように心の中でつぶやくのだった。

 共産主義国家のソ連や中国の脅威から日本を守るには、日米安保の強化しかなかった。「日本を浮沈空母とする」と私がさもアメリカ側に約束したかのごとく揶揄して言われたが、実際、その道しか残されていなかったのだ。現に今の日本でさへアメリカの支配を間接的に受けていて、鳩山君があんな沖縄の小さな普天間基地さへ移転できなかったぐらいだから。

 アメリカの力は強大だ。こんな強い国を相手に、なぜ我々、日本民族は戦いを挑んでしまったのか。当時の海軍はかなり客観的にアメリカや自国の軍隊の力を把握していたが、陸軍は感覚的に動き、統率力に欠ける部分が多かった。
 まあ、こんな過去の話をしても仕方ないが、とにかくアメリカの力だけは見くびらないほうがいい。橋本君も周囲の知人にもらしていたが、アメリカほど怖い国はない、と言うのは本当だ。
 いまだに日航機墜落のときの原因となった誘導ミサイルの衝突は我々のコントロールミスによる事故だったのだろうか、疑問が残ったままだ。
今となっては真実を解明することすらできない。
証拠はもう御巣鷹山のダムの下に眠ってしまっているのだから。
相模湾から引き上げた尾翼もいっしょに。

 あの日航機のパイロットも非常に優秀だった。自衛隊機の誘導どおりに私の息のかかった者たちがいる群馬県上野村付近で墜落してくれて。
 ただ実際には長野県の高天原山に墜落した、と聞いたときは、すぐ御巣鷹山とマスコミには伝えろ、と言って、群馬県警には自衛隊が処理するから手出しはしないよう命令しておいた。私の忠実な仲間と呼んでいい上野村の村長もよくやってくれた。
 まあ、そのおかげで近くの秘密基地にいた自衛隊の特殊部隊がすぐに出動できて、夜明けごろまでには証拠隠滅をはかることができた。
 中国の鉄道事故での証拠隠滅をあきれている日本人がいるが、日本ではそれらを影でやってて、ただ一般の人たちに見えないようにやってるだけだ。
 まあ、中国のようにあからさまにやらず、巧妙に裏にまわってやっている、というわけだ。

 事故当時はアイソトープ積載などいくつか理由をつけ、わざと間違った場所を教えて、救助隊の到着を遅らせたりしたからな。
 ただこれも長野県警のヘリコプターが正確な位置を知らせてしまって焦ったこともあったが。
 また救助に向かおうとした自衛官を射殺してすまないことをしたと思うが国の体制を保つことを優先させるのが首相の仕事だ。

 また日本のマスコミはよほどアメリカの気分を害した政治家以外には、後から真相を追及しないのが暗黙の了解だ。日本のマスコミには政府が言ったことをなるべく正確に伝える通信者はいるが真実を探るジャーナリストはいない。いや、そんなことをする記者が出ては困るのだ。あくまでも政府や警察の言うとおりのことを伝え、時々、順番に記者クラブを通じてちょっとしたリーク記事のネタをあげるようにしているだけだ。
そうしないと彼らマスコミも商売にならないからな。
 最近はネットの普及で、そのへんのからくりもさらけだされるようになってしまったが、それもごく一部の目覚めた人たちでしかないようだ。
 日本のサラリーマンはいわゆる社畜の状態だから、上の機嫌や周りの空気を読んで合わせる人間が圧倒的に多い。そうしないと社会や会社で生き続けるのは大変だろうからな。
 出る杭は打たれる。政治家では小沢君がいい例だ。世界では3番目に優秀な政治家ともてはやされている彼でさへ、マスコミは「政治と金」と言うキーワードだけで、こぞって彼を叩いている。朝日新聞の最高の編集主幹であった船橋洋一君がCIA協力リストに挙げられていたことからもわかるように、進歩的だと思わされていた朝日さへアメリカのコントロール下にはいっていた。
 まあ小沢君の政治的な現在の状況は、本当は、日本にとって非常に不幸で残念なことだ。
 元々、アメリカ側が小沢君を無視して、菅君や岡田君に直接、接触するようになった時点で、すでに相当、小沢君はアメリカを怒らせてしまったことがわかった。
 アメリカの軍隊はもう第7艦隊だけでいい、とか、民主党の若い連中を何百人も率いて中国に訪問なんてやっていたからな。
 小沢君ももっと柔軟にうまくやればいいのに、あの頑として譲らない強気の性格がつい出てしまうのだろう。政権交代を果たし、さあ、これからは思い通りの政治ができる、と舞い上がってしまった所もあるのだろう。角さん譲りだなー、あの性格は。
 ただ鳩山君ほどのんきな人ではない。
あの鳩山君ほど政治家としての苦労をあまり知らない人もめずらしいだろう。
だからアメリカの本当の怖さを知らないんだ。お坊ちゃんで育ってしまった結果だろう。
小泉君もその傾向が強く、あまりにもアメリカを過信しすぎていた。
あまり根拠のない信念に自分で酔っていたようだ。
まあ2世議員の弱点だろう。
その点、菅君ほど総理大臣に執着心をもった人間も見たことがない。
それほど若いときから憧れ、野心を燃やし続けてきた結果だろう。
その執着心だけは2世議員は見習わないといけないかも知れん。

 ただ彼は左翼ぶった改革者のつもりかもしれないが、本質的には体制側の人間だったことは確かだ。東工大でも大学改革でもりあがっていたストライキを自分の就職事情もあってか「ストライキをやめさせた、いわゆるスト破りの人間だ」と聞いたとき、なんだ、改革を途中でやめさせるリーダだったのか、と合点したぐらいだから。

 時代の潮目を見る目をもってるだけで、いわゆる波乗りが上手な政治のサーファーだ。そこには何ら信念や責任感は見えてこない。
その場、その場をなんとか乗り切ってやり過ごすことしか頭にないからだ。
橋本君がその彼の性格をうまく利用して、厚生省の改革をやっていた。
ビジネスでもそこをうまく利用すれば、彼ならすぐに乗ってしまう。
孫君はそのへんうまく使っている。

 ただアメリカ側も原発対応でここまでひどい首相だとは想定していなかったようで、対日戦略上の見直しをやっているようだ。
 この想定外が何なのか、私にはよくわからない。ただ本来なら原発事故が起こった当初、すぐアメリカ側の言うとおりに処置するるはずが、逆に専門家の言うことを聞き入れず、国民にとって悪い方向にどんどん進めてしまった、と言うことらしい。

 その想定外のことが、今後の彼らの計画上、どう影響を与えるのかわからない。
わかっていることは、今までどおり、わが国や中国など、BRICsを巻き込んで、壮大な量のお金をアメリカに舞い戻らせように仕組んでいることだ。
 あの国のドルはもう数年で限界点に達するのは誰の目にも明らかで、その結果を予想することはアメリカのみならず世界の経済を誰も予想もしたくない未知の混乱に陥れることになってしまうから、マスコミでも徹底して議論されることはない。
 ただその混乱に乗じてか、その混乱を故意に起こしてか、第2の9.11や温暖化詐欺が一斉にはじまるような予感がするのだ。

 どちらにしても二大政党制で内輪で争っている場合でないことだけは確かだ。
渡辺君もそのへんを察知してか、大連立などをぶちあげたけど、ぽしゃってしまった。
世の中の裏の動きを解析できるジャーナリストを育てず、世の中の上っ面の情報を伝達するだけの通信社機能しかもたないマスコミを維持・経営してきた渡辺君の因果応報でもある。

 「福島の放射能汚染はいますぐ健康被害はない」と書いている東大出身の一流記者に、本気でこんなこと思っているのか、聞いたことがあったが、「えぇ、そこにも小さくのっているように枝野官房長官の記者会見で、そう言ってました。私はその事実を書いているだけです。」と、胸をはっていた。そうか、マスコミとは通信社のことだったのか、と合点した。
 逆に、これでないと我々、統治している政治家にとって都合が悪いのだ。
マスコミに考える人間、疑いをもつ人間がいてはまずいのだ。

 まあ、それにしても、今後のアメリカの動きが気になるこのごろだ。
 

日本航空123便墜落事故は裏で大きな事実の隠蔽があったのは確かなようです。

私自身は諸説ある中のどれが真実なのか認定できる力はないし、その立場にはありません・・しかし、27年前に乗客乗員520人の命が亡くなった事実は消えません。それに、日本航空123便の機体には劣化ウランが使われていたそうな・・!!

オスプレイの配備計画が着々と進み、日本全国で飛行訓練されることはほぼ確実で、それを阻止するだけの力を今の日本政府は持ち合わせていません。

二度と同じような悲劇を繰り返させないために、脱原発同様に私たちが声を上げていかなければいけないと痛感しています!(`・ω・´)ゞ



<金口木舌>消せぬ記憶、つなぐ記憶(琉球新報)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-195658-storytopic-12.html
 中学生のころだった。テレビが伝える緊迫したニュース速報を昨日のことのように覚えている。1985年8月12日。日航ジャンボ機墜落事故の第1報だった
▼乗客乗員520人が亡くなった。単独事故としては現在も航空機史上最悪。墜落現場の群馬県上野村「御巣鷹の尾根」では12日、今年も慰霊式に多くの遺族らが集い犠牲者の冥福を祈った。兄を失った遺族の「今も毎日、兄の顔が目に浮かぶ」との言葉が胸に突き刺さる
▼四半世紀余がたったが、突然肉親を失った遺族にとって、忘れることのできない日だ。二度と同じ悲しみを繰り返すまいとの切実な願いが御巣鷹山に足を運ばせるのだろう
▼繰り返さないという意味で、県民にとっては8月13日も重要な日だ。8年前のこの日、沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落した。人身への被害はなかった。住宅地に近く、大惨事に至らなかったのは当時「奇跡」と言われた
▼その後もこの島は県民の願いに逆行し危険が増す一方だ。騒音被害の悪化に「欠陥機」とされる米海兵隊の新型輸送機MV22オスプレイの配備計画が追い打ちをかける。「この島の空は誰のものなのでしょう」。沖国大生が昨日の集会で発した言葉が、県民の思いを代弁している
▼民間機と軍用機の違いこそあれ「安全な空」を願う人々の心は同じ。取り戻そう。失意ではなく、希望を胸に空を仰ぎ見る自由を。


坂本九ー航空機事故死
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%9D#.E8.88.AA.E7.A9.BA.E6.A9.9F.E4.BA.8B.E6.95.85.E6.AD.BB
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。
5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を
本格化させようとしていた矢先の8月12日、日本航空123便墜落事故に遭遇、43歳で死亡した。

事故当日はNHK-FMでの仕事を終えた後に、大阪府にある
友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中であった。
九は本来、国内移動には日本航空ではなく必ず全日空を使っており、
所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。

しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを
確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。
そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日本航空機に乗っているはずがないと信じていた。

しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝広、九のマネージャー)の
名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。
この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、
お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。

九、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多い
ボーイング747-100の2階席、右列の前方から4番目に搭乗していた。
事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの
謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった夫人は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、
事故がおこるまでとくに気に留めていなかった(由紀子夫人の後日談)。

九は、ハンティング・ワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。
その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと
期待したが、何も録音されていなかった(由紀子夫人の後日談より)。

事故翌日の8月13日には、事前収録の九本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否分からずの状態であったため、敢えて放送された。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された(遺骸が発見されたのは14日頃)。

坂本九 最後の歌声

http://youtu.be/_aVLJTqNkcw