りょうきです。おはようございます。

 

悟り、神になる。もう何が何だか(笑)。

 

究極的には、自分が何を考えているのかを自分で知るということです。

俺は何を考えているんだろうと、自分で考えるんですね。

 

「見えないもの」は、おばけ氏やらに限りません。一番見えないのは、自分の心です。

自分の心なのに、自分で見えない。見えてるつもりが、見えてない。

 

自分の心を自分で見ようとする行為は、僧侶や神職の修行に限りません。

 

哲学もそうです。哲学の本質は、自分が何者かを知ることです。

プラトンもソクラテスも、自分が何を考えているのかを自分で必死に考えていた。

いわば、自分の理性を使って自分の心を説明しようとしていたわけです。

 

だから、もし今あなたが「自分のやりたいこと」をいろいろな方法で探しているのも、自分の心に自分の理性で語りかけているわけで、つまりあなたが今やっていること自体がそっくりそのまま哲学です。

 

しかしその哲学者だって、石像になるくらい立派な人でさえ、自分とは何なのかを考え続けながら生涯を終えました。

おそらく結論は出ていないと思います。もし結論が出ていたら、どの哲学者ももっと明るい表情で石像になってるはずだし(笑)。

 

自分で自分の内面を正確に見るのは、哲学者でも難しい。

そんな難しいことだからこそ、20歳そこらの普通の子が自分の内面なんか正確に読んだらおかしい。

だから見えなくてもいいんです。もし見えたなら、あなたはすでに石像のはずです。

 

しかし見えずとも、満たすことはできる。むしろ満たすことの方に意味がある。

そして満たすことは簡単で、余計なことは考えずに、目の前のことをしっかりやるだけ。

これだけで、というかこれだけが、自分の奥底を満たす行為だと思います。

 

そもそもの自分の運を良くしたうえで、力を出し切って勝ち取った道が最上の道。

だから運も鍛えて、ちゃんとお勉強をやりきったうえであれば、あなたは4月から一番いいところに通うことになるんですよ。

 

何がどういいのかなんて、わからなくてもいいんです。

自分の奥底と、ひょっとして見えない方々が後押ししたであろう次元で、最上です。

だから、いずれわかります。

安物の判断ほど、最初だけ表面的な良さを感じるものですが。

大きな英断ほど、後になって深い良さがわかるものです。

 

そして大きな英断ほど、表面的には良さがわかりにくい。

だから迷うわけですね。でも、そこは信じるしかないんですよ。

自分の奥底と、あるいは見えない方々の後押しと。

 

「自分を信じる」というのは、いわゆる自信とは少し違います。

自分で見えない、自分の奥底を信じるという意味です。

だから時にそれは、表面的な魅力に溢れた選択肢を忘れる勇気にもなります。

 

そうやって選んだ選択肢で、後になって本当に良さがわかる。

その時になって、一般的な意味での「自分に自信を持つ」ことができます。

自分の判断に、大きな自信を持つんですね。

 

やっぱりね、1年間ずっと目の前で勉強してきた子達には、楽しそうに大学に通ってほしい。

入った後のことまでは本来私には関係ないはずですが、それでもね。

 

もしこの1年このブログを追いかけていてくれたならば、運の鍛え方はだいたい分かったでしょう。

具体的にどうこうよりも、運の概略がつかめたというか。

 

全部実行なさらずともですね。

自分が気に入った箇所があるなら、参考にしてくれたらいいです。

 

そうやって引き続き少しずつ運も鍛えながら、自分で見えない自分を時々は意識しながら、しかし基本的には目の前に出てきたことを一生懸命にやる方向で生きて行く。

 

運のいいひとって、みんな共通してそういう生き方をしているものです。

そして私も、だいたいそういう路線で生きております(笑)。

 

皆様の今後のさらなる幸運を、心からお祈り申し上げます(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

今朝も薄く悟っております。

このマサラチャイが美味しくて、他の飲み物を羨ましく思わない。

 

悟ることは、日常で、小さな次元からも可能です。

ふとした瞬間に、自分の満足や幸せを感じる。その瞬間こそ、悟りです。

 

ところで、ぐっと話を戻って、焼肉の話。

 

「○○ → 焼肉食べたい → 焼肉屋さんに行こう → みんな集合」

 

…の、「〇〇」は自分では見えないと書きました。

 

見えません。自分が根本で考えている「〇〇」は、自分では見えない。

推測くらいはできるけどね。でも、所詮は推測です。はっきり見ることはできません。

 

繰り返しますが、見えなくてもいいんです。全く実害はない。

その〇〇が、とりあえず満たされればいい。

そのためには、目の前のことを一生懸命やりきること。

他に目移りしないくらいまで、自分のものをやりきること。

それだけで〇〇は満たされ、小さな悟りを得ることができる。

 

 

しかし、それでも気になりますか。自分の〇〇。

 

 

自分が何を考えているか、自分でわかっていないのは、やはり気持ち悪い?

自分がその大学を選んだ深い理由とか、やっぱり知っておきたい?

 

なるほど、どうしても○○が見たいですか。そうですか。

じゃあ仕方ない。自分の根本の〇〇は、見ようと思えば見れます。

 

方法は、いくつかありますよ。坐禅や滝行、千日回峰行とか百万枚護摩供も。

 

お坊さんの修行って、いろいろあります。簡単なものから、命がけの荒行まで。

彼らは、何のために修行をするのか。何が目的なのか。

 

お坊さんの修行は、すべて「自分の〇〇を見ること」を最終目標にしています。

自分で意識できない次元の、深いところの自分を見るために修行します。

 

誤解を恐れずに言い切れば、僧侶の修行は、自分の潜在意識に自力で到達することを目標としている。

坐禅を通して自分の潜在意識に到達する人もいるし、滝に打たれて到達する人もいる。

修験道の場合は、山を駆け巡るうちに到達することを目標とします。

宗派によって方法は異なれど、ゴールは同じなんですね。

 

よく言うでしょう、お坊さんの修行は、無とか空とかを目標とするとか。

あるいは雑念とか煩悩を振り払うためとも言います。

 

言い方は様々でも、共通するのは「自分の中のいろいろ振り払った先にある、“なにか”に自力で到達する」なんですよ。

 

その“なにか”が、つまり心理学で言うところの潜在意識や超意識なのかもしれません。

もっと簡単に言うと、「自分が何を考えているのかを自分で知るために、自分の知らない自分を自分で見に行く」というかね。

 

それがためには、〇〇を推測することをやめなければいけない。

逆算すら、してはいけない。直接見なければいけないからです。

 

坐禅は、そのためにあります。自分の余計な思考を、人為的に止めるんです。

滝行の場合は、冷たい水にビシャッと打たれた瞬間に、思考が止まります。

 

試しに冬のお風呂で、いきなり冷水シャワーを頭から浴びてごらんなさい。

「うひっっ」って息を飲んで、「冷たい」すら頭に出てきませんよ。

それを、外で何分も続けるんです。そりゃ思考も止まるって。

 

で、すべての思考が止まった時、奥底の〇〇が一瞬見える。

自分の中の、「根本の自分」に会える。普段の自分のすべての行動の根拠だった、根本の自分の姿を見ることができるそうです。

 

これもまた、悟りといいます。規模の大きな、一生レベルの悟りです。

この瞬間、自分の根本を知ることができる。何を以て根本の自分を満たすべきかを、全面的に知ることになる。そして、存在としての自分と他者との差すら意識しなくなる。

だから、これもまた大きな悟りです。

 

座禅を組むとき、手を前で丸く組みます。法界定印(ほっかいじょういん)といいます。

仏教では、誰でも自分の中に仏がいるとされますが、その仏はこの印の中にいるとされます。

 

その仏に、自分で会いに行く感じですかね。良き自分の行動規範となっていた、自らの中の仏に会いに行く。

 

ちなみに、観音様は別名が観自在菩薩です。

不思議なお名前ですね。観自在菩薩。

よく見ると「自らに在る菩薩を観よ」ともなりませんかね。自分の中の仏を見よ、と。

 

曹洞宗の道元禅師の言葉に、「死んでから仏を見てどうする。生きているうちに、仏を見よ」とも。

 

お釈迦様は、35歳で自らの中の仏を見たのでしょう。悟った瞬間です。

お釈迦様に続いて、歴代の高僧たちも自らの中の自分を追い求め、様々な方法で、それぞれに見えた。

 

見えた人たちがおよそ共通して曰く、「なかなかいい奴がいた」らしい(笑)。

 

ということはね、誰にでもその中に「なかなかいい奴」がいるんですよ。

せっかくそうやっていい奴がいるなら、見ようとするのもよし、しかし少なくともそんな奴いないと思って生活するのはちょいと寂しい。

 

仏教に限りません。神道でも同じ考え方です。

神道では、自分の中に神がいるとされています。誰でも、心の中に神がいると。

第122講の六根清浄にも書いてあったでしょう。あのまんまです。

 

ただ、なかなか簡単にはその神に会うことはできない。自分なんだけどね。

仏教での「心の中の仏」は、神道では「真我(しんが)」や「神」と言います。

それらを見るのを妨げる要素を、仏教では「煩悩」、神道では「罪穢れ(つみけがれ)」、あるいは「我(が)」と言います。

 

つまり煩悩をかき分けた先にある、自分の中の仏を見ることを。

我を祓った先にある、真我や神を見ると表現します。

 

だからね、神道では鏡をやたらと重んじるんです。ご神体にもします。

ご神鏡ともいうし、三種の神器の一つも鏡です。

 

鏡をご神体にしている神社も多いです。神棚にも、鏡をご神体にします。

 

なぜ鏡を拝むのか。

 

そこに映るあなたに意味があるからです。

普通のあなたが映れば、鏡に映る姿はあなたですが。

あなたから我が取れた時、その鏡には神が映ります。

「かがみ」から「が」が取れたからです。だからそこに映るのは「かみ」。

 

…うーむ、日本の信仰は実に深いですねぇ(笑)。

 

閑話休題。

 

このように、自分に在る菩薩を観たり、かがみに映る自分がかみになるために、我々は生きているらしい。

それがために修行の毎日だそうで、この星はつまり修行の場所。

 

実際に坐禅を組んで、本当に菩薩を見る必要まではないと思います。

でも、こういう事情なら、ちょっとは考え方も変わるかもしれない。

自分に起きる出来事に対して、解釈が変わるかもしれない。

 

そうやって、ある時に何かに対する解釈が変わった時、煩悩がひとつ取れて、あるいは我がひとつ取れて、仏あるいは神に一歩近くなるんでしょう。

 

…と、私は紅茶を飲みながら考えております。

 

紅茶の水面に映る顔は…あぁこれは神とは程遠いわ。今日も頑張ろっと(笑)。

 

良き一日をどうぞ(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

焼肉とお寿司の話。

 

焼肉に行くことになり、ひたすら焼いて食べて満足して、店を出る。

そもそも根本的な理由があって焼肉に行ったはずなんだけど、それを考えても仕方ない。

お肉がおいしかった、それでいいじゃないか。

 

ところで、店を出た時に別な友達グループが、お寿司に行った帰り道だった。

彼ら曰く「超おいしいお寿司だったよ!」だそうで。

 

その時、あなたは焼肉を後悔しますか。

俺が食べたかったのはお寿司だったのかもしれないとか、思いますか。

 

おそらく思わないでしょう。

「そうか、君はお寿司か。俺は焼肉だったぜ」だけだと思います。

 

この状態が、理想です。

つまりそれぞれが、自分の状態に満足している。

だから、他人のお寿司を羨ましく思わない。自分の焼肉を失敗だったと思わない。

 

この状態はどういう状態かというと、「差」を意識していないんです。

 

焼肉とお寿司だと、本来はたくさん差があります。値段とかいろいろ。

これからどちらに行こうかと考える時、2つの間のいろんな差を考えるでしょう。

条件の違いと思っているかもしれませんが、要するに差を考えている。だから悩む。

 

志望校に出願する時だってそうです。

どっちの大学に出そうかと悩む時、2つの大学の差を考えている。

曰く偏差値だったり、就職先だったり、院への進学のしやすさだったり。

 

話を戻って、焼肉屋さんから出てきた時。

 

お肉を食べている時は、お肉しか考えてないはずです。

そして知らない間に、焼肉屋さんに来た根本的な動機も満たされている。

だから、店を出た時には全面的に満足している。

従って、お寿司の連中と遭遇しても、羨むことも後悔することもない。

 

つまりお肉を食べるという行為をやりきったわけです。

どういう動作であっても、やり切るとこういう状態になります。理想です。

 

こういう時、お寿司がおいしかったと言う連中に、「よかったね」と心から言える。

自分よりも偏差値の高い大学に合格した連中を、心から祝福できる。

同時に、自分の目の前の結果に、完全に満足している。

また同時に、自分の結果によって、自分の○○が満たされていると知る。

 

この瞬間その目には、自分と他者との「差」が映っていない。

「差」の存在を意識しない。自分が満たされ、意識する必要がなくなったから。

 

のび太カツオ問題というのがあります。のび太とカツオの、どちらが幸せか。

 

正解はカツオです。なぜなら、彼はマンガの設定上「差」を見る機会が少ないから。

カツオの周囲のキャラは、似たような人物ばかりでしょう。

だからカツオは、自分と周囲に差がない設定なんですね。

 

ところがのび太は、自分と周囲に「差」を見る機会が多い。

自分よりもはるかに金持ちなスネ夫とか、はるかに優秀な出来杉とか。

平凡で、できもイマイチな自分との差がいちいち歴然なんです。だから悩みやすい。

 

これらはアニメで、しかもその差の有無は本人の努力ではなく初期設定ですが。

 

要するに人間は、自分と誰かとの差を意識した瞬間、いろいろと余計なことを考え始めるんですよ。で、そこから悩みや妬み、羨ましさや憎悪までもが始まってしまう。

 

つまり誰かとの「差」が、だいたい全ての悩みのタネになっているものです。

裏を返せば、「差」を意識しないことができれば、だいたい心は穏やかです。

そして、その意識しない術が、自分の与えられたことをやりきることなんですね。

 

何も考えずやりきった時、人は単純に達成感だけが残ります。

これは何かをやりきったらわかります。どんなことでもいい。

マッチを1万本並べる趣味でもいいですよ。1万本並べきった時、趣味が釣りの隣のおじさんがマグロを釣ってきても、関係ないでしょう。

どうしても千本くらいで投げ出してしまう時、おじさんがマグロを釣ってきたら、趣味を釣りに鞍替えしてみようかなとか思ってしまうはずです。やりきってないからです。

 

1万本並べると決めて、本当に1万本並べた時、こうなります。

自分の意識の中で、他者との「差」が消えるんです。頭から、「差」が取れてしまう。

 

 

これを、悟りといいます。

 

 

悟りとは、難しいことではありません。差が、取れる。これだけです。

これだけで、人間は幸せを感じる生き物として作られています。

 

言葉遊びと言うなかれ。

こういうことは、その言葉自体に本質が隠されているものです。

 

知らない間に、自分の○○に到達し、他者との差がなくなった。

この幸せを知るために、人間は生きているようです。

だから生きているうちに、どんな小さな差でもいいから一つ取ってみる。

小さいけれど、差が取れたと言ってみる。小さいけれど、誰でも悟れるんですよ。

 

「誰かと比べるから、悲しくなる」とよく言います。

あれは、悟りの本質です。

「世界は一つ、みんな同じ」ともよく言います。

あれは、誤解してはいけない。世界は一つではなく、みんな同じわけがない。

ただ、差がないんです。それぞれ異なるんだけど、差はない。

「平等」とは、ややニュアンスが異なります。ただ、差がないだけ。

 

こんなシンプルなことなのに、実は非常に難しい。

だから一生かけて、小さなことから差を取っていく練習を、我々はしているようです。

 

そうすると、あなたの日常にちょっとずつ悟りの瞬間はあるはずです。

一生かけて到達せずとも、ある時ふと差が取れる瞬間がありませんか。

 

ベトナムのとある高僧曰く、「茶と飲む時は、茶を飲むことだけを考えるべし」と。

目の前のお茶を美味しいと思う。この瞬間、コーヒーにすべきだったかなとか考えない。

コーヒーも紅茶も考えていない。そのお茶が美味しいと思う気持ちだけが、ある。

 

そのお茶と、コーヒーとの差が取れた瞬間です。小さな悟り。

私は毎朝、紅茶で微かに悟り、紺のスーツでも密かに悟っています。

 

仏教が、目の前のことだけをやってごらんとやたらと言うのは、こういうことかと。

 

そうすると、悟りは難しくないでしょう?

 

ところで今朝の紅茶も美味しい。

世界一のエスプレッソがどこかにあろうが、今の私には関係ない。

うーむ、今朝もちょいと悟れたぜ(笑)。

 

良き1日をどうぞ(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

昨日はお疲れ様でした。今日も続きがある人は、今日も焼肉的にどうぞ。

 

昨日、近所のコインランドリーに行ったら、こんな張り紙が↓

ギャルっぽさからの、しかし自信がないのか。

 

もしも昨日の結果に自信がないなら、あなたは今きっとこの2行目みたいに違和感のある顔になってますぜ。

だからそのお顔のためにも、自信持ちなさぃな。もとい、自信持ちなさいな。

 

あとは待つだけですか。あるいは中期や後期とか。

何れにしても、自分の中でやりきった感があれば、それでいいんです。

 

焼肉に行って、ああでもないこうでもないと考えてお肉を中途半端にしか食べられないより、何も考えずお腹いっぱい食べた方が幸せなように。

プランAだろうがBだろうがXだろうが、どのプランであっても、やりきることで根本は必ず満たされるものです。

 

暗殺教室というアニメの初期のOPで、「青春サツバツ論」ってのがあってね。

そのサビが、「やりきってないからやりきれなーい♪」でさ。

やりきったんなら、やりきってますよ。つまり根本は満たされます。自信をお持ちなさい。

 

…ところで、この「やりきってないからやりきれなーい♪」だけど。

 

ギクッとする言葉ですね。私も十分ギクッとします。

やりきってない状態は、要するにハンパヤローってやつですか。

やりきれない思いの原因は、どこかでやりきってないから。

 

私もだいぶハンパヤローだったのでね。聞いてギクギクしっぱなしです。

数多のハンパ経験を振り返って思うのは、それらはもう仕方ない(笑)。

 

そのハンパ経験の次には次で、また新しい経験が目の前に出てくる。

しからば、次はそれこそちゃんとやりきればいいのさ。

極端な話、生きてる間のどこかで、何かをやりきればいいんです。

 

何を以てやりきるというのかは、やりきればわかるんじゃないですかね。

つまり自分の中の、○○が満たされた状態を知ることになるかなと。

 

蛇足ですが、以前に書いたカラスマ氏の話からふと思い立って、最近は動画サイトで暗殺教室(アニメ)を観ています。

 

このアニメ、深いですね。教職を志す方は、一度は見たほうがいい。

あと、テーマソングの歌詞も深い。自力本願レボリューションとか。

エンディングは、「描いても描いても、綺麗にならない 選んだ絵の具に、罪はない」。

合格発表までの、落ち着かない日々の消化剤としてどうぞ(笑)。

 

しかしかくいう私は、何かをやりきった男なのか。

 

わかりません。やりきったような、そうでもないような。

しかしある次元で、「あ、こういうことか」みたいにはなりました。少しだけ。

 

自分の中の見えない○○があって。

それを満たすプランは色々あって、どのプランからでも満たすことはできる。

自分の計画では特定のプランがいいと思いつつも、しかしそれが最上とも限らず。

 

ところがどのプランであろうが、やりきらんことには永遠に○○は満たされないわけで。

だから目の前に出たプランをやりきることが、○○を満たす最も合理的な行動である、と。

 

で、どれかのプランをやりきって○○とやらを満たすと、どんな気持ちになるのか。

 

 

…これね、実はこの1年ずっと考えていたんです。

それこそ高野山のお堂に座って、考えたこともあります。何も浮かばなかったけど(笑)。

 

ただ、こういうのが近いかな、というのは出た気がします。

 

昨日の話です。「焼肉屋さんから出た時の気持ち」が近い。

単純に、楽しくて、お腹いっぱいで、嬉しい。

 

そうやってお店を出た時に、例えばお寿司屋さんでお寿司をたらふく食べた帰りの別なお友達グループに出会ったとします。

目の前の彼らは、お寿司を食べて幸せそうですが。

あなたは焼肉を食べて、幸せでしょう。

 

そういうことなんじゃないですかね。

 

詳しくは明日以降。ちゃんと書きますから(笑)。

 

良き1日をどうぞ(^^)

 

りょうきです。おはようございます。

 

昨日ね、昔の卒業生たちが神戸に遊びに来てくれて。

元気そうで何よりでした。加えて、楽しそうに大学に通ってくれていて、これが一番何よりです。

 

時々、このように卒業生が遊びに来てくれることがあります。

卒業後もご縁を繋いでくれてね。これは本当に嬉しいこと。

 

当人たちは、この文章を見てくれているんだろうか。

 

楽しかったねぇ(^^)

またいつでも神戸にいらっしゃい。

 

 

ところで。

 

 

国公立の前期入試は、およそ本日です。

 

早いですねぇ。4月に予備校に入ったと思ったらねぇ。

あっという間。こうやって、人は歳をとっていく(笑)。

 

今日ばかりはね、先のこととか自分の根本とか考えてないでね。

ただひたすら、目の前の問題を解いてばかりいたらいいです。そういう日。

 

結局ね、先週の話だけど。

 

自分が心の奥底で何を考えて、何を望んでいるのかなんて、見えないんです。

自分の行動の最終目標が見えないまま、人間って色々と行動する。

自分の行動の理由を推測しながら、一生懸命行動する。非常に妙な生き物です。

 

従って、今日あなたがその大学を受ける理由も、実はあなたには見えてない。

そうすると、その不明な理由を満たすためには、その入試を一生懸命受けることだけが、唯一の合理的な行動です。

 

先週のお寿司屋さんの話。

お寿司食べたくなって、お寿司屋さんに行こうとして、運転なうの話。

 

○○ → お寿司食べたい → お寿司屋さんに行こう → 運転しよう

 

…の、○○だけは自分で見えない。自分のことなのに。

 

でもさ、結局寿司屋でお寿司を食べるわけですが、食べると満足でしょう。

自分でも見えてない○○が、自分でも見えてないレベルで満たされるからです。

それだけでいいんじゃないですかね。

 

お友達や家族と、焼肉の食べ放題とか行ったことありますか。

 

あるなら、何のために行ったの?たんぱく質補給?親交を深めるため?

みんなで何かを狙って、作戦を考えて行ったとか?

役割分担して実行して、作戦通り何かが手に入ったとか?

 

違うよね。何となくそういう話になって、みんな揃ったから行ったはずです。

で、楽しく焼いて、お腹いっぱいになって満足して、機嫌よく帰ってきたんでしょう。

 

ところがこの焼肉も:

 

○○ → 焼肉食べたい → 焼肉屋さんに行こう → みんな集合

 

…なんですよ。焼肉には焼肉の○○があるんです。ないなら行ってない。

 

それをね、○○は何だろうとか考えながらお肉を焼いてごらんなさい。

今日なぜ俺たちは焼肉に来たのかとか、討論しながら焼いてみる。

せっかくの焼肉が、クッソつまらなくなるだろうね(笑)。

 

なんか知らんけど、焼肉に行くことになった。

○○の正体はよくわかんないけど、とりあえずこのお肉は美味しい。

あー美味しかった。おやすみなさい。

 

…○○はわからずじまいだけど、でもきっと○○は満たされてるよね。

 

どの行動にも○○は必ずあるんだけど。

それを見ないで、というか無理に見ようとしないで、目の前の行動だけに集中した方が、○○は簡単に満たされるんです。

 

逆に言うと、○○を考えようとすればするほど、難しい顔になります。

よく言うでしょう。頭が良いと、むしろ幸せになりにくいとか。

 

あれね、○○を意識して、そこを端緒に色々考えてしまうからです。

○○は何だろう、今のこの路線で合ってるのか、俺は来年どうなるのか。

 

○○を皮切りに、余計な妄想や執着が芋づる式に出てくる。

だから、結果が出ても、この結果で本当にいいんだろうかと止まらない。

つまり、いつまでも満たされない。お金がある人の、先週のアルマーニと同じ。

 

ということでですね。本日の結論。

 

ある日みんなで焼肉に行くことになったように、今日あなたは試験を受けることになったんです。

だから、出てきたお肉だけ美味しそうに食べてればいい。

店を出てから、あー美味しかったと笑えばいい。

 

受ける気持ちとしては、私は焼肉も入試も同程度だと思います。

ということで、制限時間内でたらふく点を取っていらっしゃいな。

 

良き1日をどうぞ(^^)