銅の軍神コラム⑲新田義貞顕彰への道 | 智本光隆ブログ

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1,江戸時代の義貞

 

さて、前回で新田義貞、義顕の後継まで行きましたが・・・

さくさく現代までいかねばならないので、間の時代をざっくり飛ばします。

室町幕府が潰え、織田、豊臣と経て、時代は江戸となりました。徳川家康は……大河ドラマが終わったばかりですが、家康は新田義重の末裔を名乗っています。そこ、大河ではどうなっていたっけ?

 

 

これは「将軍になれるのは源氏だけ」「祖父の清康の代に『世良田』(新田一族)」を名乗った」「当初は加茂氏と源氏を併用」「三河守になるために「徳川(得川)三河守義季の子孫と称した」といろいろ言われています。関ヶ原の合戦前後で新田流に統一しているようですね。

 

 

 

 

では、義貞は将軍家の家祖として神格化されたのか?これには一定の経緯は払われたようですが、特別なものはなかったようです。江戸時代初期、家康を御所で「新田殿」と呼んでいた……という記録があるので、当初は「新田の子孫」として幕府を開いた様子。大坂の陣が終わり、徳川家単体の力で世を統べられるようになると、こういった「新田色」は薄くなって行きます。このあたり、岩松家が系図の譲渡を拒んだ影響もあるかも知れません。

 

 

徳川義季墓所

新田義重の四男。徳川家の祖とされた。

 

 

逆に江戸時代は将軍家の先祖ということで、新田氏流を名乗ることに、各大名たちは「遠慮」があったようです。主な大名のなかでも「大中黒」を使用した家はありません。

3代将軍徳川家光「生まれながらの将軍」ですので、特に新田を使う必要もなかったようです。

この時期ですと、徳川光圀『大日本史』で義貞を論賛しています。もっとも、光圀が一番に上げているのは楠木正成で、湊川に「嗚呼忠臣楠氏之墓」と自署した墓碑を建てています。ご老公、福井に「嗚呼忠臣新田氏之墓」を建てようとは思わなかったんですか?ちなみに、うちの故郷で黄門様がお立ち寄りになりません。東野黄門の次は里見黄門でした。

黄門様が助けたい、一人娘とかいないんでしょうかね、うちの地元。

 

 

2,高山彦九郎と頼山陽

 

そうして、時代は激動の幕末へ。

……その前に勤王家の高山彦九郎が出現します。

 

 

「寛政の三奇人」と称された思想家で、上野国新田郡細谷村の農家に生まれました。その家系は『太平記』2巻に登場する「高山遠江守」の子孫を名乗っており、子供の頃から『太平記』を読み漁ります。そのまま、史学科にでも進学……してたんでしょうか、今なら。

 

 

彼の活動期間である天明7年(1787)は義貞の没後450年に当たっていましたが、彦九郎は村の農作業を休止させて、太田の金龍寺へと参拝しています。義貞の墓がある寺です。

 

 

もうひとり、思想家の頼山陽がいます。彼の著した『日本外史』は武家の興亡史であり、松平定信に献上されています。ここでは、

 

「其の国に報ずるの志、百敗挫けざるを見る。今に至るまで凛として生気あり」

 

とされています。『太平記』『梅松論』の時代に義貞が評価されのは、「武士としての姿」「武士としての生き様」でしたが、「天皇に忠義を尽くしたか否か?」という点が第一となります。徳川光圀、高山彦九郎、頼山陽の下した評価が、その後の「新田義貞像」を決定づけることになるのですが・・・

そういえば、金井烏洲は頼山陽と会ってましたね。何をしゃべったんだろうだろうか・・・

 

 

そうして、世は幕末明治へ。

勤王思想が広がる時代、真木和泉、木戸孝允、榎本武揚、松平春嶽などが義貞を讃える和歌、漢詩などを残しています。

 

明治天皇も明治7年(1874)、「新田義貞」と題して「投け入れし劍の光あらはれて千尋の海もくかとなりぬる」と、御製の和歌を詠まれています。

 

 

そして、明治27年に井上馨、新田俊純が稲村ヶ崎に「新田義貞之碑」を建立。これは単に馨の、武子さんへの愛かも知れませんが、ここより、「新田義貞顕彰」がスタートします。

 

 

 

 

 

 

続きます。