1,建武の新政の風景
さて、昨日から『銅の軍神―天皇誤導事件と新田義貞像盗難の点と線―』の書店販売が開始しております。なので、このコラムもペース上げて行こうかと(当初案ではこの時点で義貞の生涯は終わっている予定でしたが、まだ半ば……)
鎌倉幕府が滅んだ報告は、義貞から後醍醐天皇へ使者が遣わされました。この時、伯耆国の船上山から都に戻る途中で、兵庫に到着したあたり。後醍醐は大いに喜んで、使者にまで恩賞を与えています。この翌日、千早城から楠木正成が到着。皇居前の銅像のあの場面ですね。後醍醐は正成を先陣として、意気揚々と京都へ入りました。
楠木正成像
さて、京都はすでに六波羅探題が滅んでいます。それに代わるものとして足利高氏が六波羅に「奉行所」を設置して治安維持に務めていましたが、ここには都周辺の武士が集まっていました。この状況は後醍醐も無視できず、高氏はまず鎮守府将軍、そして従四位に任じられます。そして、後醍醐の名である尊治から「尊氏」と名乗ることを許されます。
新田義貞の上洛がいつごろか不明ですが、論功行賞のはじまった8月3日には上洛していたよう(6月前半はまだ鎌倉にいたらしい)
恩賞は従四位上左衛門督となり上野、播磨の国司となるなど、それなりに処遇されています。これにより義貞は足利尊氏に次ぐ、武家で第2位の地位となりました。同時に「武者所」に任じられ、新政の武力責任者となります。
この「武者所」はいろいろ不明な点が多い組織ですが、都の治安維持を担う、後醍醐直属組織とみれば良いかも知れません。
他の武士は、弟の脇屋義助は従五位上兵部少輔、息子の新田義顕が従五位下越後守、楠木正成は従五位下で摂津、河内の国司、名和長年、結城宗広など、手柄のあった諸将も恩賞を受けました。
楠木、結城、名和(伯耆守)に公家の千種忠顕を加えて「三木一草」なんて言葉があったりします。新政で羽振りの良かった4人という意味で。
ただ、この恩賞は義貞など一部の武家はともかく、全体的には公家に偏ったものでした。特に北条氏の領地は後醍醐天皇、護良親王、そして天皇の后・阿野廉子が大半を占めるなど、不公平なものです。
また、尊氏の征夷大将軍を希望していましたが、これは討幕に功績のあった護良親王に与えられています。当然、尊氏は不満を持ちます。このように、新政は当初から波乱含みのスタートとなりました。
2,中先代の乱
そんな「建武の新政」は、あっさり破綻します、はい。
まず、10月に征夷大将軍である護良親王が謀反の嫌疑で捕らえられ、鎌倉に送られて幽閉されました。これにより、新政で武力を司っているのは新田義貞と足利尊氏のふたりになりました。元々、義貞の武者所と尊氏の奉行所は職域が重なっており、対立は避けれれない面はありました。
それでも2年弱は平穏に流れましたが建武2年(1335)7月、信濃で北条高時の遺児・時行が挙兵します。時行は諏訪氏の後ろ盾で鎌倉へ進撃。この時期、鎌倉には足利直義がいましたが、北条軍に敗れて三河に敗走します。
……致命的に戦下手なんだよな、直義。
噂によると生涯の戦績が22戦3勝15敗4分 勝率.134 だとか。
すごい!暗黒時代のベイスターズすら凌駕している。
これの救援に尊氏が向かい、あっさりと時行軍を撃破します。ですが、尊氏がそのまま鎌倉に留まったことによって京都対鎌倉の構図が出来上がります。
それはそのまま、新田義貞対足利尊氏の対立ともなりました。
この両者……個人的な遺恨ななかったはずです。少ないながらも、史料がそれを示しているのですが、新田家と足利家の対立、そして「後醍醐天皇の武力責任者」(義貞)と「武家の利益代表者」(尊氏)という避けれない対立でもありました。
尊氏は後醍醐からの再三の帰洛命令にも応じす。ついに建武2年11月19日、新田義貞に「足利尊氏追討」命令が下ります。
建武の新政が崩壊した瞬間でした。
足利尊氏像
続きます。