猫絵の姫君コラム③ー徳川家康という絶対強者ー | 智本光隆ブログ

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1、この系図は渡せない・・・の結末は

 

 

さて、金山城が落城した後、当主の岩松(新田)守純は、

現在の桐生市にある竜泉寺に退居していました。

徳川家康の関東入部に伴い、子の豊純を伴って家康に拝謁します。

場所は川越城とも、竣工直後の江戸城とも言われております。

家康は当初、岩松父子を歓迎しますが、

 

 

「家の系図を台覧に入るのところ言上の次第よろしからざりしかば、

先帰郷すべしと台命あり」(『新訂寛政重修諸家譜』)

 

 

これは家康から「岩松家の系図を徳川家に貸すか、譲渡して欲しい」と、

頼まれたところ、守純が拒否をしたと言われています。

もしくは守純が新田本家をしての態度を取った為に、家康の怒りをかったとも・・・

とにかく、岩松父子は城を出され、早々に桐生に引き上げざるを得ませんでした。

 

 

これは、家康が「新田氏世良田流徳川(得川)氏」を名乗っていたことと、

大きく関係します。

 

 

新田氏初代・新田義重の四男が得川(世良田)義季です。

家康はこの得川家の末裔を名乗ったわけですが、

当初の目的は得川義季が「三河守」であったからだと見られます。

なお、「徳川」としたのは、『吾妻鑑』が「徳川」としていたからかと・・・

 

 

実はこの得川氏は、2代目の得川頼有の代になって系譜が不明になります。

その後、新田荘の得川郷を吸収したのは、

実は岩松政経(岩松経家の父)なのですが。

これが後世に影響したのだろうか・・・

なお、家康からは岩松が「新田」を名乗ることを事実上禁じられたために、

以後はまた岩松を使っています。

 

 

家康は織田、豊臣の時代は藤原氏も併用しえいましたが、

関ヶ原の合戦前後から家康は「新田氏」に家系を統一しています。

『お湯殿上の日記』にも、御所で「新田殿」と呼ばれていた(呼ばせていた?)と、

残されています。

征夷大将軍就任へ向けて「新田源氏本家」としての地位を固めた家康にとって、

「新田義貞末裔」を名乗る岩松家は邪魔な存在でした。

結局、家康から与えられた領地は新田荘の市野井郷に20石のみ。

三代将軍家光の十三回忌の1663年に100石加増されて120石になり、

領内の下田嶋村に屋敷を構えます。

石高といえば、これは地域の豪農と大差ありませんね。

これが幕末まで続くわけですが・・・

 

 

太田市の金山神社

岩松家の居城だった金山城の跡

 

 

 

2、由良家の動向

 

 

一方、由良家の方はどうなったのか?

豊臣秀吉の小田原攻めで、由良家当主の由良国繁は小田原城に籠っていましたが、

その母親の妙印尼(赤井輝子)は豊臣軍に属して松井田城を攻めます。

この時、輝子さんなんと77歳・・・

 

 

女傑というレベルではない! なお、忍城の甲斐姫は輝子の孫です。

そういう血筋なのか?

この功績を秀吉は認め、由良家は常陸国牛久に7000石を得ます。

後に由良家は高家に列せられたので、岩松家は抗議したといいますが、

覆されることはなく。

これ以後、岩松家は祖先の事績の収集や、

新田荘や上野各地の在地の農家、商人、寺社仏閣などと交流を深めます。

 

 

そうして、誕生したのは「新田猫絵」です。

 

 

 

続きます。

 

 

 

 

智本光隆