「きいてほしいの、あたしのこと〈特別編〉-ウィン・ディキシーのいた夏」
のDVDを、nikoと2日連続で2回観ました。
(2日目はnikoのリクエストで。気に入ったらしい)
ネタばれ記事かもしれないんで、
みようと思った方は、この先は、みたあとで読んでね!
フロリダ郊外に引っ越してきた10歳の少女が犬を媒介に、友達を増やしていく話。
少女オパールの母は、3歳のときにオパールと牧師の父をおいて出て行った。
その母のことを「抜けた歯の場所を、何度も舌でなぞってしまうように」いつも考えてしまうオパール。
(nikoが、「あ!nikoもいっつもベロで歯のないとこさわってるよ!」と嬉しそうに反応)
図書館の老婦人、ペットショップに引きこもる「流れ者」、町はずれに住む「魔女」グロリア。
それぞれに孤独な大人たちと交流していくうちに、
土地の子どもたちとも、
忙しい父親とも、
心がつながっていく。
アマゾンのレビューの中には、「主題がぼやけている」「単なる子ども向け」という酷評もあったけど
私はそうは思わない。
「人々のさまざまなありようと、そのままつながっていける可能性」がテーマなんじゃないか?
キャラクターも魅力的だし、台詞も、映像の美しさも、 ユーモアも、あと音楽もよかった。
アルコールで目がほとんど見えなくなってしまったグロリアに
「あんたのことを、話しておくれ。
そしたら心で見るから」と言われ、
自分のこと、自分が経験したことを夢中で語るオパール。
「きいてほしいの、あたしのこと」のタイトルどおり、
聴いてくれる人をずっと求めていた少女の人生が広がっていく瞬間。
こういうのは、子ども向けと決めて見てしまうと、かんじとれないシーンじゃないかな。
どのシーンにも、自分の中の
寂しさや孤独を投影してみたら、それが解消していく経過には、すごいカタルシスがある。
実際登場してくる大人自体も、寂しさや孤独の中に生きながら、
少女との出会いをきっかけにそれが溶け出していく体験をしていくのだから、
そちらに感情移入していってもいい。
よくいわれる「想像力」というより、
必要なのは「投影力」かもしれない。
それが高いほど、映画や本で感動できるし
学べるんだと思う。
自分を登場人物に投影し、
そこで起きること感じることを自分の生活に引きつけてこんどは「応用力」を使う。
(観賞でなく実生活での投影がやっかいなのは、
自分の生活に応用して役だてるのではなく、
勝手な投影の上のアドバイスを相手に対して押しつけてしまうこと)
名言がたくさんありました。
「旅立つものを、引きとめることはできない。
やさしくできるのは、そばにいるときだけなんだよ」
思わずそばにいるひとのことを順番に想います。
旅立つとわかっていたら、いまのあり方、関わり方でいいのかどうか?
そして実際にどの人も、自分自身も、いつ旅立つのか、誰にもわからない。
「悲しみの味のキャンディみたいに、
甘さだけ味わう、っていうのはできないみたいだ」
そう気づくオパールに、悲しみも豊かさの一部、と気づかされる。
「もと刑務所にいた」という友人の過去について動揺するオパールに
グロリアが見せたものは、
大きな木の枝から無数のロープでぶら下がる、
おびただしい数の空き瓶。ウイスキーや、ビールや、、、すべて酒の瓶。
巨大なモビールのように、風に揺れ、かすかな音をたてる酒瓶たち。
過去に犯した罪のモニュメントを毎日眺め、音を聴きながら、町はずれの森で暮らし
「今はもうコーヒーより刺激の強いものは飲まないんだ」というグロリア。
この壮観な光景のもとで
「彼の過去よりも、今、彼が動物に優しいことや、歌う歌が素敵だってことを見てあげなさい」
という言葉は、言葉だけよりも100倍の説得力を持つ。
こどもと育ち、社会を構成していくことに、
一昨日のトークライブに続いてまた考える作品となりました。
私とnikoの好きなシーンは、
ピクルスの大瓶を抱えてパーティーにやってきた交流下手な青年が、
自己紹介のように「どうも、ピクルスです」と言うところ。
nikoはほかにも犬がひっちゃかめっちゃかに
いたずらするシーンの度にげらげら笑いながら見ていた。
そのへんがよくできていて、動物もたくさん出てくるので
親子で無理せず楽しんだかんじ。
痛かったのは、
「パパはママを探すのをあきらめたんだ!」と責める娘
「違う!頑張ったけどうまくいかなかったんだ!ダメだったんだ!」と叫ぶ父。
「ママが出て行ったのは、私が悪い子だから?」
「違う!それは絶対に違う!そんなことを言ってはいけない」
という片親を失った子の言葉とパートナーシップに傷ついた片親の言葉たち。
でもこうやって、映画や小説の中に、
さまざまな痛みが、形を変えて繰り返されるのを追体験することが
自分の経験や抱える問題を対象化していく助けになるし
感情の浄化にもなる。
グループセッションでは、それがノンフィクションで語られるところ、
そして自分自身を語る場(聴いてもらえる場)にもできるところが
パワフルな「対象化と浄化」の場なんだよね。
来月は、「兄弟姉妹の中の私」です。