出雲大社にて

ひいたおみくじに書いてあったのが

 

主人→先祖、家族のために骨をおりなさい。

私→先祖を敬うのは道理である。

息子→先祖に手をあわせると良いことがある。

 

とあったつまり

主人には、

自分のお父さんのためにお墓の手続きなど、

家族や先祖のために行動すること。

 

私には、先祖を敬うということの

道の理を説いている。

 

息子には、先祖へ思いをはせる習慣の

実行を説いてくれている。

 

 

あまりに、それぞれにぴったりすぎるのだと

わかったのは家に帰って

再びそのおみくじを読んで見たときでしたが😂

 



 

何が一番いいのかと考え迷っているとき

 

現実の中で出来ること出来ないこと

 

何が一番しっくりくる選択肢なのかを

 

 

それぞれの立場、亡き義父、残された人の思い

 

どうするのが一番の道なのか

 

でも、義父はどうしてほしいかと

残していかなかったと思っていた

 

義母はあなたたちがつぐのだから決めてと

いいつつ、心は決まっていたし

 

どうしたもんか。。。。

 

でも実際には

ひとつひとつ導かれる先に

 

もうすでに、道は決まっていたし

そこにはその選択肢がもう決まって

そこにあったではないかと

今になって振り返ると思う

 

数ある選択肢の中から選択しているようで

その解はもうそこにすでにあり

 

丁寧にその状況を

自分の立場やエゴ的意思を

フラット取り除いてみていると

 

その選択はそのようにもう

すでに成っていた

現実はもうすでに、撒かれた種によって

あり、それが三次元的現象として

形になる時期を待っていただけで

 

ただそうだった

そのことに気付けず

 

どうするべき

 

なのか迷っていただけだった

 

本当はべきなどなかったのに♡

 

大いなる存在はそのことを

そのことを気付けるように

いつも示唆してくれる

 

解はくれない

それは解があるからではなく

解は成るからだ

 

そこに観るものの本質をみせてくれる

それが導きなのだと思う

 

その解ではない

本質で起こっていることを

観ることができれば

 

お墓を建てるか建てないかではなく

私たちにとって今回の迷いの中にある

先祖供養の中に観ているものの

本質をみてとれて

 

現象としての解にもたどり着く

 

つづく♡

 

きっと次が最終章☆