二つの鬼子母神
先日のこと。 東京駅で山手線に乗り換えて、大塚へ。ここで都営荒川線に乗り換えます。昔、東京の道路を走っていた「都電」のうち、唯一残った荒川線。残ったのは、路面ではなく、専用線路を持っていたからで、三ノ輪橋~早稲田間を走っています。今は「都電」ではなく「東京さくらトラム」と呼ぶそうです。目的地は、ここ↓。駅から広がる参道のケヤキ並木。古いもので樹齢400年。東京都指定の天然記念物ですが、現在では若木を補いながら江戸の旧観維持に努めています。ケヤキ並木を過ぎると、お寺が見えてきます。鬼子母神を祀るのは光明寺。鬼子母神は、「きしぼじん」ではなく、「きしもじん」が正しい読み。鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、千人もの多くの子どもを産んだといいます。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児を盗んでは自分の子どもたちに与えて育てていたため、人々から恐れられていました。その様子を見兼ねたお釈迦様は、その罪から訶梨帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。子供が居なくなった訶梨帝母は気違いのようになって捜し回ります。ところがどこを捜しても子供は見つからずとうとうお釈迦様に救いを求めに行きます。するとお釈迦様は訶梨帝母に対し、おまえは千人もの子供が居るにもかかわらずたった一人の子供が居なくなってもこの様に悲しむのに、ましてや何人も居ない子供をさらわれた親の悲しみが、どれほど深いものか解るかと諭され、我に返った鬼子母神は仏教に帰依します。それからの鬼子母神様は苦しい修行にも耐えて、母親と子供を護る仏教の神として信仰されるまでになります。石畳の参道を進むと左右に石の仁王像がお堂を護っています。この二像は丈と幅が同寸といわれる珍しいお姿で、もと、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたと伝えられています。その左側にある大公孫樹(おおいちょう)は樹齢約700年といわれ、東京都の天然記念物に指定されています。その隣には倉稲魂命(うけみたまのみこと)を祀った古社武芳稲荷があります。あ、これは。テレビでも紹介されたことがある、境内内の駄菓子屋さん。大黒堂。本堂右にある鬼子母神像。鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用いています。改心した鬼子母神には、もう恐ろしい鬼のツノは不要になったのです。鬼のツノにあたる部分がない書体はPC上では見当たらないので、鬼の字で代用させていただきます。駅名「鬼子母神前」にはツノがあります。鬼子母神堂 お堂から入口を見る。 その後、荒川線で大塚に戻り、御徒町で地下鉄日比谷線に乗り換え、入谷へ。真源寺(しんげんじ)です。ここも鬼子母神を祀ります。入谷の鬼子母神と中山の鬼子母神と雑司ケ谷の鬼子母神とが古来より江戸三大鬼子母神と言われています。 ここでも「鬼」の文字にはら、ツノがありません。ツノを消しています。意外や雑司ヶ谷の鬼子母神に比べると小さい。しかし、ここが鬼子母神で有名なのは、大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落が江戸っ子に受け入れられたため。同じような例に、「びっくり下谷の広徳寺」「情け有馬の水天宮」「なんだ神田の大明神」「なに祐天寺、中目黒」など。毎年7月6日から8日の間には「入谷朝顔市」が開催され、真源寺の境内は色とりどりの朝顔で賑わいます。このイベントは、明治時代に入ってから始まり、江戸後期から続く朝顔栽培の伝統を受け継いでいます。約60軒の朝顔業者が出店し、毎年40万人が訪れます。