[書籍紹介]

「乱歩と千畝」→「明智小五郎事件簿」→「ポー傑作選」
→仁木悦子→「砂の器」→松本清張→橋本忍
と来て、
ついに黒澤明に到達。

2018年、100歳で亡くなった
日本を代表する脚本家・橋本忍による、
黒澤明の映画にシナリオライターとして関わった時期
を中心とした自伝。
2006年刊行。
黒澤明の「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」、「生きものの記録」、
「蜘蛛巣城」、「隠し砦の三悪人」、「悪い奴ほどよく眠る」
で脚本を担当、
黒澤明名作誕生の裏舞台を
脚本づくりに関わった当事者が語った一冊。

結核にかかり、療養所に入っていた際に
隣のベッドの患者が読んでいた『日本映画』を借りて、
その中に掲載されていたシナリオを読んで、
これなら自分も上手く書けると思ったのが、
脚本家になるきっかけだった、
という話は初めて聞いた。
その後、伊丹万作にシナリオを送り、
指導を受けるようになった。
伊丹万作に原作モノを書くように勧められ、
まだ誰も手をつけていない芥川龍之介に目をつけ、
とりあえず「藪の中」を脚色し、
それが黒澤明の目に止まり、
映画化することになった。
ただ、短いので、前後を膨らますように言われ、
同じ芥川原作の「羅生門」を付け加えた。
この付け加えた部分はほとんど黒澤のアイデアのようだ。

「羅生門」がヴェネチア映画祭でグランプリを獲得して、
橋本忍の前途が開ける。
小國英雄と引き合わされ、
次の作品、『後、75日しか生きられない男』の話に取り組む。
これが後の「生きる」である。
「生きる」という題名は黒澤がつけた。

脚本にとって重要なのは、
一にテーマ、二にストーリー、三に人物設定だという。
主人公の職業が小役人と決まり、
箱根の旅館に缶詰となって、
シナリオ作りが始まる。
志村喬が「ゴンドラの歌」を歌う場面では、
歌詞の続きを、年配の女中に歌わせて採用した、
という珍しい話が続く。
「生きる」の次が「七人の侍」だが、
この間に『ある侍の一日』と『日本剣客列伝』という
2本の企画があったことは初めて知った。
『ある侍の一日』は、親友と城中で弁当を食べる重要な場面にあったが、
その時代は一日2食なので、
弁当を持参するというのがなかったことが判明して挫折。
中止の決定に黒澤が烈火のごとく怒ったという。
『日本剣客列伝』の方は、
オムニバスの形式が起承転結に合わず断念。
そして、野武士の略奪から村を守るために百姓が侍を雇う、
というアイデア一つで始まり、
侍の数も七人と決まった。
「七人の侍」である。
その7人の造形で、『日本剣客列伝』の模索が役立ったという。

第一章 「羅生門」の生誕
第二章 黒澤明という男
に続く、
第三章 共同脚本の光と影
では、黒澤明の共同脚本の手法について触れる。
黒澤明の作品リストを見ると、
30本のうち、
初期の6作品と最晩年の3作を除き、
ことごとく複数の脚本家の合作だ。
本作の題名「複眼の映像」の由来である。
旅館にこもり、
同一シーンを複数のライターが書いて、
それを一本に練り上げる。
この脚本の作り方は、
世界のどこにも例のない
黒澤明独特のものだ。
しかし、途中で変貌を遂げる。
一人が先行して書くやり方を
最初から討議して決定稿を作る方式に変わったのだ。
「ライター先行形」から「いきなり決定稿」への変更。
それにより、黒澤作品は変質したという。
「どん底」「蜘蛛巣城」と混迷は続く。
野村芳太郎が橋本忍に言った言葉が衝撃的だ。
野村は言う。
「黒澤さんにとって、
橋本忍は会ってはいけない男だったんです」 「そんな男に会い、
『羅生門』なんて映画を撮り、
外国でそれが戦後初めての賞を取ったりしたから、
映画にとって無縁な、
思想とか哲学、
社会性まで作品へ持ち込むことになり、
どれもこれも妙に構え、
重い、しんどいものになってしまったんです」
「羅生門」「生きる」「七人の侍」、
「それらはないほうがよかったんです」
「それらがなくても、
黒澤さんは世界の黒澤に・・・
現在のような虚名に近いクロサワでなく、
もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています」
異論はあろうが、
野村芳太郎の言葉だというだけで、
含蓄深く聞こえる。

橋本忍は、黒澤晩年の「影武者」も「乱」も認めていない。
主役の影武者と、本物の信玄の人物像が共に薄弱で、
ほとんど人物設定ができていない。
「乱」もリア王の人物設定が出来ていない。

小國英雄も同意見で、
「世の中、広いよ。
あんなホンを映画にする者もある」
とまで言う。
橋本は小國に言う。
「今後は黒澤さんのように、
強力なライターチームを作り、
そのリーダーになるような映画監督は、
もう二度と出てこないと思います」
小國は「でもそれはもう終わったんだ」と言い、
続ける。
「しかし、本当に手が揃っていたよな。
前半はお前、橋本忍が主戦投手、
後半は菊島隆三・・・
日本映画の双璧だよ。
しかし、まず橋本が去り、続いて菊島・・・
その上、救援と抑えの俺まで降りる・・・」
「日本の映画史に数々の名作や佳作を残した
黒澤組の共同脚本も、
ついに『乱』で崩壊・・・終わったよ」
橋本忍は書く。
黒澤さんは最高級の腕を誇る偉大な職人から、
一人の芸術家に変貌してしまった。
黒澤明は芸術家になったために失敗したのである、と。
歌舞伎に目を転じて、
「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」の三大名作が
いずれも竹田出雲、三好松洛、並木千柳の共同脚本だという指摘も興味深い。
小説家からシナリオライターになった例は一例もなく、
これからもそれはあり得ない。
小説は読み物、シナリオは設計図という
全く性質の異なる別々な生きものであることと
後は経済的な問題──
シナリオで稼ぐよりは
小説家のほうが楽に稼げるということではなるまいか。
という指摘もなるほどと思わせる。
日本のシナリオライターのギャラは安い。
才能は集まらず、もっと稼げる小説の方に行ってしまう。
赤川次郎がいい例である。
実は、私は黒澤明ファンで、
全作品を観ている。
やはり頂点は「赤ひげ」で、
黒澤の全てのエッセンスが詰まっている。
その時黒澤55歳。

「用心棒」「天国と地獄」も50代の作品。
その前の「羅生門」40歳、
「生きる」42歳、「七人の侍」44歳。
私は映画監督は、50代が限界、という自説を持っているが、
「影武者」70歳、「乱」75歳。
確かに無理があったのである。
いずれにせよ、
この本は、黒澤明の一番身近にいた人物の著作。
興味深い本だった。