以下、キルケゴール全集8巻「哲学的断片への結びとあとがき」より
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もしレース編み女が素晴らしく美しいレースを編んだとしても、その編み手のいじけた哀れな姿を考えると暗い気持ちに閉ざされる。
それと同じように、非常に有能な活躍をしているにも関わらず、私生活では小心者のごとく生きている思想家、すなわち私生活では結婚しているのだが、愛の力を知りもしなければ愛の力に感動することもなく、だからその結婚は彼の思想と同じように非人格的なものであり、その私生活は激情(パトス)も情熱的な戦いも失ってしまって、どの大学が最もよい給料を払うかということだけを、ひたすら思い患う思想家があるとすれば、それは喜劇的だと言わざるをえない。
われわれは、この様な食い違いは、思想との関係においては不可能だと考えるに違いない。
即ちそのようなことは、一人の人間が他の人との奴隷として働く外面的な不幸であって、だからこそあのレース編み女のことを考えると、涙なくしてはそのレースを賛嘆することは出来ないのだと考えるに違いない。
思想家というものは、この上なく豊かな人間的生活をおくるものと考えるに違いない。
もっともギリシャにおいてはそうだったのである。
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はい、難解な哲学書の中でも、すんなり入りやすい部分かと思われます。
美しい作品であったとしても、作り手から不幸せな雰囲気が漂っていれば?
美しい作品を生み出すことが嫌で嫌で仕方ないなら?
金メダリストが優勝インタビューで「やっと引退できる」みたいな事を言えばファンのみならず、彼に負けた人物も不幸ですよね?
芸術家の私生活破綻はキルケゴールを通じて枚挙に暇がありませんが、逆に思想家(哲学者と敢えて表記せず)にとって揺るぎない最大の哲学は
「本人の幸せ」
になります。
それが
人間の人間らしい美と芸術の礼賛であれ
徳高い禁欲を善しとする、倫理と道徳の理想を追求するにせよ
神と信仰に生きるにせよ
行き着く先は
「私の哲学」である。
社会及び隣人への「反射」は手段の一端であれ、決して最終目標ではない。
他者との比較でも優越でもなければ、義務でも功名心でもない。
自己肯定と自己礼賛から生まれる
「やりたいこと」
それこそが
「自由」
であれ、そこに行き着くまでの障害が予め取り除かれているという
「平等」
は理想の一端であれ、他者に是正を要求するものもでない。