そして私は思い出す。

 

 

 

 

3.心を閉ざしてロックを聴いて。

 

 

 

弟の世話をして本を読むだけの生活は私にとってぬるま湯に浸かっているような心地のよい時間。けれど人生には波がある。母はいつの間にか就職口と新たな住居を見つけており私たち家族四人は守られた世界から外の世界へ舞い戻ることとなる。

 

私は数ヶ月ぶりに小学校に復学することとなった。新しい町での新しい学校生活。学校で使うリュックサックや筆記用具などの必要なものは母が買い与えてくれた。せっかくだからおしゃれで可愛いデザインのものにしなさいと意気込む母はお洒落番長で美意識の高い祖母とよく似ている。その頃には母と祖父母の関係性も以前より良いものとなっており、祖父母は定期的にやってきては私たち孫を大層可愛がってくれた。見返りを求めない愛をただただ与えてくれたのだった。

 

狭いアパートで段ボールをテーブル代わりにするような生活だったが、母は毎日美味しいご飯を作ってくれた。大食らいの私が満足するまでたくさんの食べ物を与えてくれた。そのおかげで当時の私はまるまると肥えており、大人になってその頃の写真を見返すとなんとも居た堪れない気持ちになると同時に母への感謝が込み上げてくる。

 

母は朝から晩まで働き詰めだった。夜勤と日勤を繰り返し、朝早くに家を出ては夜遅くに帰ってくる。なので家事の一切は私が行ったし弟が小銭を喉に詰まらせた時には大人顔負けの判断力でそれに対処した。やがて母は子どもだけで残しておくことに不安を覚えたのか家政婦さんを雇ってくれた。恰幅のいい家政婦さんは私たち兄弟にとても良くしてくれた。

 

贅沢はできないし私も自分の時間は持てなかったけど、それは母も弟も同じで…不自由さや窮屈さを感じる日々だったがたくさんの人に助けられ、そして母の「絶対に子どもたちにひもじい思いをさせない」という強い意志と気迫を日々私は感じ取っていた。

 

けれど、新しい学校での生活は私にとってとても辛いものだった。これまで私は家庭環境ゆえか学校に通うことが好きだったし小学生でられる時間は唯一安心できる瞬間でもあった。

母は必要最低限の筆記具などを買い与えてくれたが、図工や音楽など、個別の授業で使う道具についてはなかなかそこまで手が回らない状況だった。当時の私もそれを理解していたからクラスメイトに必要なものを分けてもらったり貸してもらったりしてやりくりしていた。

けれどある日のこと、クラスメイトの女の子に何気なく言われてしまったのだ。「ちゃんと自分で持ってきなよ」…と。私は当時、図工で使うハサミも定規も持っていなかった。絵の具もあまり持っていなかった。何気ないクラスメイトの言葉は私の心に重くのしかかった。脳裏に嫌な気持ちが頷いて、今すぐその場から立ち去りたくなった。私は心を閉ざしてしまった。

 

私の母はピアノ講師だった。大変な日々の中で母はピアノを弾く時間すらとれなかったけど、私も小さい頃(小学生も小さい頃に変わりないが)は母にピアノを教えてもらっていた。音楽の授業、合唱曲のピアノ伴奏に私は立候補した。母は喜んで電子キーボードを買ってくれた。けれど練習するにはそのアパートは狭すぎた。

私は放課後に音楽室でピアノの練習をすることにした。当時の担任であった男性教諭に放課後の音楽室の使用許可をもらいにいった。その頃の私は義父と離れて暮らしていたにも関わらず、私の思考や行動は常に義父の機嫌を損ねないことを前提にしていた。

 

極度に周囲の目を伺い、極度に他人に対して不信感を抱き、心を閉ざした可愛げのない子ども。それが私だった。ある日の放課後、音楽室に向かっていた私は担任を見つけたので今日も音楽室を使うとの旨を伝えた。担任は「毎回言わなくていい。練習しているアピールか?」と言ってその場をあとにした。私の頭には「???」が並んでいた。

 

勝手に何かを使ったり、勝手に意思決定すると怒るじゃん。ずっとそうだった。だってこの世界はそういう世界なんでしょ?

私はどうしたらいいのかわからなかった。そこに義父はいないのに、義父にする態度を周りの人にもしてしまう。怖くて怖くて仕方なかった。私の心に黒くて重たい気持ちが渦巻いた。私はまた心を閉ざした。どうすればいいかわからない。

 

進級した頃、私は完全に問題児になっていた。母も担任との面談の際には「娘さんは問題児です」と断言されたそうだった。(母は気にしていない様子だった)

心を閉ざした私の挙動はいつも誰かの目を伺い恐怖し過敏になっていた。自分を守るために強い言葉も使った。大人は信用できなかった。数ヶ月間、学校に通っていなかった影響は後に響いてきた。もともと得意だった国語や暗記するだけの社会科以外はまったくもってついていけなかった。

勉強もできない、素行も荒い、そして大人を信用しない斜に構えた可愛くない子ども。だからこそ私の言動は悪目立ちするようになっていった。私だってそんな子どもはどうかと思う。やってもいない事実を私のせいにされた。変に目立っていたせいでクラスのリーダー格のような扱いを受けた。どこに行くにも誰かがついてくる群れ社会でいつの間にか私の言動は小さな影響力を持つようになっていた。

 

私が特定の個人をいじめている疑惑があがった。私は放課後に担任から呼び出され、夜の20時近くまで尋問された。担任の態度は義父と同じだった。私は知らない、やってない。そう言っても納得しない。お前がやった、お前が悪いという前提のもと、「嘘をつくな」「お前が悪い」と圧をかけてくる。とうとう私は面倒くさくなってしまってありもしない事実を自白してしまった。担任から罵倒された。義父はもういないけど、やっぱり義父の影はいつも付きまとう。…こいつも同じだ。私はまた心を閉ざした。「なんだその目は」その台詞さえ義父と同じだった。「どんな目をしてるってんだ?!ああ?!」私は担任に食ってかかった。自分がどんな目をしているかなんてわからない!!私の目が気に入らないならいっそ抉り取れ!!私にこんな顔をさせているのはお前の癖に!!!

 

私の小学校時代は、人生において最悪を極める数年間だった。クラスメイトの言葉が幼稚でどうでもいいものに思えた。どうしようもなく疎外感を感じていた。笑顔の裏で「気楽でいいね」なんて最低なことを思っていた。

大人は嫌いだった。理不尽で支配的で図体だけでかいから威圧感がある。私の心を乱し、私の首を見えない何かで締めているみたいだった。毎日息苦しくて、呼吸ができない。おねしょは依然として続いていた。修学旅行、心配した母親が担任に私の夜尿症について話したらしく、深夜に私は担任に起こされた。担任は私に「…夜中、起こした方がいいんだってな」と直接的な言葉を使わずにトイレまでの道を先導し始めた。大嫌いな担任に気を遣われている事実にも愕然とした。ろくにお礼も言わずに部屋に戻った。早く帰りたい。どこか、私だけの安住の地に帰りたい。それってどこにあるんだろう。

 

中学校に進学した私は早々に教師に怒られていた。なぜなら、当時の私は髪の毛をオレンジ色に染めた状態で入学式に出席したからだ。

授業が始まるまでに染め直すようにと言われた私だったが私のオレンジ頭はその後も暫く続いた。先輩の女子生徒に呼び出され、漫画やドラマで見るような洗礼を受けたりもした。髪の毛は自然な黒色ではなく、私はオレンジ色の髪の毛と短いスカート、そして学校指定ではないカーディガンやカバン、ソックスを身につけ(もちろん校則違反である)中学校生活を反抗的にスタートさせた。誰かと違う姿、誰かと違う自分でいることに陶酔していた。それは自分の柔らかい大切な部分(心)を守るために身につけた鎧のようだった。

 

こんな私でも友達は多い方だった。その頃から私の反抗心は母親にも向き始め、誰の言葉に耳を貸すこともなくひたすらロックを聴いていた。私は必死に悪ぶっていた。放課後は弟を保育園に迎えに行き、保育園の先生方に大層可愛がってもらった。夜は家事をして弟の世話をしていたし、寝静まった弟の顔を見ている瞬間が何よりの幸せだったが当時の私は何者にも縛られないアウトローのつもりだったのだ。

 

 

 

ひとつ、ひとつと心を閉ざしていく。ひとつ、ひとつと本心を隠し…ひとつ、ひとつと自分を偽りアウトローを気取る思春期の私。

そして私は自分を完全に見失ってしまう。自分で自分がわからない。私は誰で私はどこにいる?周りにはたくさんの友人がいるのにどうしてこんなに孤独を感じている?疎外感を覚えている?どこにいても自分の居場所はここじゃない気がして…でも。果たしてこの世界に自分の居場所なんてあるのかな?

 

その答えを求めていたから必死にロックを聴いた。けれど私の求める答えはどこにもなかった。

 

 

 

続く