カルト宗教からの脱会 〜赤裸々しくじり体験〜
  • 03Mar
    • 赤裸々しくじり体験~最終章~

        昨年の9月から綴り始めたこのブログも、早いもので半年を迎えようとしています。高校生の頃から始まったしくじりの道。ここまで詳細に綴ることに多少の不安はありましたが、それでも『自分の心の整理』と言う目的は達成されたように思えます。日本に帰ってきた当時は、誰にも言えず、誰にも分ってもらえず、孤独の中でただもがいていました。真っ暗闇のトンネルの出口が見えずに、どこをどう進んで行ったら良いのかも分からず、がむしゃらに水面ギリギリの所で息を吸っていた魚の様でした。このブログを始めてから、たくさんの方々から反響や感想をいただくことが出来ました。様々な出会いもあり、自分の世界も少しずつですが広がっているような気がしてとても嬉しく思っています。同じような苦しみや、悲しみ、心情を通過して来られた方々との出会いは、時に私に勇気を与え、時に前を向く機会を貰え、生きていても良いんだ!と思わせて頂けました。相田みつをさんの詩に、こんなものがあります。まさしく今、私はこの詩通りに体験したすべての苦しみや悲しみを、肥料に肥やしにして生きているのだと思います。日本に帰国したことで、私はカルト宗教から脱会する事が出来ました。このブログでは、題名通り赤裸々にしくじり体験の日々を綴りました。今は、しくじりではない新しい日々が始まっています。ですから、このブログはここまでで一旦終了したいと思います。その後は?その後はどうしたのですか?と言う、ご質問も沢山頂きました。実は、「カルト宗教からの脱会=ゴール」ではないと言うことを実感しました。脱会は、あくまでも新しいスタート地点なんです。カルトによってマインドコントロールされた思想、行動、恐怖心、失望感・・・etc脱会した後も、深く傷として残ったまま過ごすことになるのです。その状況から抜け出し、私自身を取り戻す作業を、私は「リハビリ」と呼んでいます。私は、現在進行形でリハビリの日々を送っています。このブログの続きは、新しいブログで立ち上げることにしました。題して、カルト宗教からの脱会~赤裸々リハビリ体験~。今後、帰国してからの内容はこちらに綴っていこうと思っています。今まで長い間お付き合いして下さいました皆様、誠にありがとうございました。心から感謝しています。おわり

  • 02Mar
    • いよいよ出国

       いよいよ私たちの順番が来ました。3人分のパスポートを提出すると、審査官が私たち一人一人の顔を確認しながらコンピュータに何やら入力をしています。私の心臓はバクバクして、もう張り裂けそうでした。「あなたたちは、出国出来ませんよ。」そう言われるのではないかと、3分ほどの手続きが1時間にも2時間にも感じるほど長かったように思います。私たちのパスポートにハンコが押されます。どうやら無事に、出国手続きが完了したようです。「スゴハセヨ(お疲れ様です)」と言って、出発ロビーへと向かいます。色々あったけれど、ようやくこれで無事に日本に帰れるのだという安堵感で満たされました。恐らくもう来ることのない国、しかし子供たちにとっては母国でもある国です。彼女たちが大きくなって、この国へ来たいと思うことがあればそれはそれで良いと思いました。良い面も悪い面も知っている彼女たちですから、自分たちで判断することでしょう。飛行機も時間通りに離陸し、今度は日本での生活が始まろうとしていました。日本に帰って来れたからと言って、めでたしめでたしと言う訳にはいきません。東京に着くと、姉が車で迎えに来てくれていました。久しぶりに会った叔母さんに、子供たちも笑顔が弾けます。これからは、姉と母が住んでいるアパートに一緒に住まわせてもらうことになります。きっと母は、今までそうであったように私に圧力をかけてくるはずです。ややもすると、2世である子供たちに信仰を強制してくるでしょう。この先、母と同居しながらどうやってそれを回避するのか?日本に全く基盤のなくなってしまった私が、再度日本に定着するために何をしなければならないのか?借金 ・ 宗教 ・ 学校 ・ 仕事・・・・。これから解決しなければならない事が、山積していました。だけど、この時の私は「無事に日本に帰れた」ことの安堵感の方が大きくて、事の重大さに全く気付いていませんでした。つづく

  • 26Feb
    • 出国手続

       翌日、まだ星空の見える早朝にお姉さんの車で空港へと出発しました。午前中の便を予約していたので、早めに空港に行ってスマートフォンの解約手続きなどやっておきたかったからです。お姉さんの家から空港まで、車を飛ばして40分。車内で色んなことが走馬灯のように、私の頭の中を過りました。この時の私を突き動かしていたのは、「ただ自分の人生を取り戻したい。」そんな思いだったと思います。空港に着き、お姉さんとも別れの挨拶を交わしました。「頑張って!自信を持って!明るく楽しく、これからは貴女らしくね!」そう言って励ましてくれたお姉さんに、心からのお礼を言って別れました。韓国に来て、私名義で作ったスマホ。今の私は、一円でも持ち金が減ってしまうのはとても痛かったのですが仕方ありません。解約する前に、再度スマホの電源を入れてみます。やはり、教会のサモニムから何度も着信があり「教会に連絡を入れるように」とメッセージも入っていました。カルト宗教と共に過ごしてきた20年という歳月が、「無」になってしまうかも知れない恐怖と戦うのは本当に勇気がいりました。でも、自分自身を変えるのもまた自分自身であり、これが本当に最後のチャンスかも知れないと思いました。私はスマホ会社に足を運び、きれいさっぱりと精算を済ませました。少しすると、私のスマホは圏外となり完全に解約手続きが終了したのだと思いました。子供たちを連れて、受付カウンターに荷物を預けます。身体検査が終わり、いよいよ出国手続きです。「お前たちが韓国から出られない様に、空港に手配しておいたからな!」夫の言葉が頭を過ります。この出国手続きが終わるまでは、安心できない・・・。色々な人に迷惑をかけて、色々な人に助けてもらってやっとここまで辿り着いたのに。ここで、もし出国することが出来なかったら全てが水の泡となってしまう。夫の言葉が恐怖だったのには理由がありました。日本と韓国は、ハーグ条約の締約国であるからでした。韓国は2012年に、日本では2014年に加盟国となりました。ハーグ条約とは、「一方の親の同意なく16歳未満の子供を元の居住国から出国させる事を禁止する。」と言う条約です。(2016年現在、日本を含めた95か国が締約国)私一人が帰国するのであれば何ら問題はなかったのですが、子供たちを一緒に日本へ連れて帰る行為は厳密に言えば民事上の問題に発展する場合があります。だから、彼が言っていることはあながち嘘ではないと思いました。夫が裁判を起こせば、誘拐罪等の対象とされます。その場合、私が韓国に再入国した時点で逮捕されます。ただし日本では、平成26年4月1日より前に連れてこられた子供に対してはハーグ条約に基づく返還の対象とはならないそうです。例外として返還を拒否できることがあるそうですので、具体的に何個か挙げてみます。 連れ去りから1年以上経過した後に裁判所へ申し立てがされ、かつ新たな環境に適応している場合。 返還により子が心身に害悪を受け、またはほかの耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合。 子が返還を拒み、かつ当該子がその意見を考慮するに足る十分な年齢・成熟度に達している場合。ですから、もしお子さんを日本に一緒に連れて帰って来られようと悩んでいらっしゃる方は、そのようなトラブルが起きないように、その国の法律に詳しい弁護士さんにご相談することをお勧めいたします。ちなみに、韓国語では헤이그협약と言います。ぜひ、ご参考にしてください。さて、私は天に祈る気持ちで出国手続きの順番を待っていました。あれだけ緊張した瞬間は、今までに無かったのではないでしょうか?つづくにほんブログ村

  • 23Feb
    • 最後の夜

       ターミナルから、今晩お世話になるお姉さんに電話を掛けるとすぐに迎えに来てくれました。子供たちは、そのお姉さんと一緒に昼ご飯を食べて待っていたようでした。私たちは、あまり来ることのなかったソウル市内を初めてじっくりと観光しました。ソウルは、東京とそんなに変わらない印象を受けました。田舎暮らしをずっとして来たので、何となく都会の空気が懐かしくもありました。何しろ、行き交う人が知り合いでないことがとても楽でした。田舎では、すれ違う人すべてが知り合いみたいなものでしたから、いつも緊張していたように思います。人の目を気にしないで歩けるのが、何だか嬉しかったことを思い出します。そのお姉さんは、ふとある化粧品店に立ち寄りました。その頃、少女時代のユナが宣伝していた口紅がとても流行っていたのですが、私にその口紅をプレゼントして下さいました。「これからは、このくらい明るい色の口紅をつけて幸せに楽しく生きないとね」今まで私はお金がなくて、化粧品もろくに買うことが出来ませんでした。高校時代の友達が薬局で働いているのですが、韓国までわざわざ試供品を送ってくれていました。その試供品のお陰で、私はお化粧をして出勤することが出来ていたんです。自分の好きな色の口紅を買うことなど出来なかった私には、そのお姉さんの優しさがとても嬉しかったのです。実はそのお姉さんも、ひとり親家庭で大学生になる息子さんと二人で暮らしていました。それでも、アパートを買い、自動車を持ち、子供を大学まで送っている彼女は本当に凄いと思いました。その晩、夕食を取った私たちは、仁川の海へと繰り出しました。韓国での最後の夜です。お姉さんは、売店である物を買って来ました。それは、花火でした。誰もいない海岸で、子供たちと一緒に花火をしました。波の音を聞きながら、明日にはこの海を越えて日本に戻るんだとしみじみ思いながら、どうか無事に出国できるようにと祈ったのです。私たちは、夜の海で素敵な思い出を最後に作りました。お姉さんの家で一泊し、翌日の早朝に仁川国際空港へと向かうことになっています。私はふと、今まで電源を切ったままだったスマートフォンの電源をオンにしてみました。すると、何件もの着信とメッセージで溢れかえっていました。その中にはハルモニからの着信や、バンドの師匠からの着信。教会のサモニム(教会長婦人)からの着信も含まれていました。みんな、思い止まって欲しいという内容でした。最後の夜、私はハルモニにだけ電話を入れました。挨拶もせずに出てきてしまった事、本当にお世話になった事、もう韓国に残る意思はない事を伝えました。ハルモニは電話口で泣いていましたが、もう決めた事だからと言って電話を切るしかありませんでした。一番腹が立ったのが、今更ながら連絡を入れてきた教会のサモニムでした。教会は何もしてくれなかったくせに、今になって親切顔ですか・・・。もううんざりです。地獄に落ちると思ってもらって構わない!私はそんな気持ちで、スマホの電源を再び落としました。つづくにほんブログ村

  • 19Feb
    • 哀れな男

       一人別行動をとった私は、とある人と高速バスターミナルで待ち合わせをしていました。10年ぶりにあったその人は、少し肉付きの良い体つきになってはいたけれど不思議と違和感なく再会することが出来ました。私はその人に、日本に帰る前にどうしても確認しておきたい事があったのです。「久しぶり。」その人は、とても警戒しているように見えました。当時はこんなに韓国語が話せなかったから、少し驚いた表情を見せていました。「私ね、日本に帰るんだけど。その前に確認しておきたい事があったから来てもらったの。」「何?」「人は誰でも失敗することがあると思うから、最後にもう一度だけあなたにチャンスを与えようと思う。私たちはもう赤の他人だけれど、あなたには父親としての責任がある。だけど今まで、娘に対して何一つ父親としての責任を果たして来なかったよね。彼女の前に、父親として誇らしく居たいのか?を最後に確認しようと思ってね。」そう、私は10年前に別れた最初の夫に会いに来たのです。生き別れの父親が、子供が成功するとお金をたかるケースは韓国では良くあること。特に子供が有名になったりすると、急に産みの親だと名乗り出て裁判沙汰になるニュースを何度か見たことがありました。暴力を振るわれたりするのが嫌だったので、わざと人の多い高速ターミナルの待合室で落ち合いました。「俺は、あの子の父親として生きて行くつもりもないし、あの子に会う気も、ましてやあの子の為に養育費を払うつもりもないから。」30歳を過ぎた彼は、「少しは大人になっているのかな」と思ったけれど、やっぱり人間そんな簡単に変われるものじゃないんだと痛感しました。これで、彼女には父親はそういう人間だったんだと話すことが出来ると思いました。彼女にとってはつらい現実かも知れないけれど、変に期待を持たせるよりはマシだと思いました。私の前から突如消えた彼が、その後どうやって生きて来たのかを聞きました。実はあの姿を消した日、彼は「母を殺そうと思っていた」と言いました。「いっその事、全員殺してしまおうかと思った」と。その言葉を聞いた私は、本当にギリギリの状況で生きていたのだなと思いました。一歩間違えたら、彼に殺されていたのかも知れないのですから。もう二度とこの人間とは会うこともないし、私の記憶から抹消しようと思いました。帰り際、「お金貸してくれないか?」とボヤいていました。オートバイの店が、あまりうまくいっていないようでした。本当に別れてよかった。こんな人間のクズに、チャンスを与えようと思った私がバカだったのです。そうは思ったけれど、これで何のわだかまりもなくさっぱりとした気持ちで日本に帰る事が出来ます。もう、韓国に来ることもないのだから。私は、その哀れな男に背を向けて子供たちと合流することにしました。つづくにほんブログ村

  • 16Feb
    • 脱出

       翌日、彼は朝早く出かけて行きました。私はペンションの彼女にすぐに電話を入れて、今すぐに迎えに来て欲しいと頼みました。彼女もいつでも私を迎えに来られるように準備してくれていたようで、10分もしないうちに彼女の車が私の家の前に停車しました。私は、家のカギと車のカギをリビングのテーブルの上に置き子供たちと共に彼女の車に乗り込みます。最後にハルモニに挨拶をしたかったのですが、夫がいつ帰って来るか分からない恐怖があったので、集落の誰にも別れを告げることなくこの村を離れました。高速道路に乗るまで、私たち親子3人は後部座席に座って誰にも見られない様に姿勢を低くしていました。この村に残る彼女に迷惑をかけたくありませんでしたし、どこで誰に見られているか分からないからでした。ソウル方面に車を飛ばし、途中のインターチェンジで少し休憩を取ります。彼女とコーヒーを飲みながら、村を無事に出られた安堵感ともう少しで別れなければならない寂しさとが、ひしひしと胸に込み上げてきて二人で泣きました。しかしもう決心したことですから、後ろ髪を引かれる思いを殺して前に進むしかありません。不思議と、主人に対する未練は全くありませんでした。好きでもない人間と結婚をしたからでしょうか。ややもすると、冷たい人間だと思われるかも知れませんね。それよりも、自分が一生懸命に築き上げてきた10年間が無になってしまうようで。異国の地でこうして私を助けてくれている友と別れることの方が、私にとっては辛かったのです。気が付くと、車はもうソウルに到着していました。彼女が車を停めた場所に、前に何度か彼女のペンションで会った事のある女の人が立っていました。今晩は、彼女の家で一晩を過ごさせてもらいます。私よりも10歳年上の彼女は、私たち3人を温かく迎え入れて下さいました。私の事情も知っていたので、韓国での最後の1日を思い切り楽しもうと色々な観光地を案内して下さると言っていました。私はペンションの彼女にお礼を言って、固く抱き合い別れを告げました。彼女は、車の中で号泣していました。私は本当に申し訳ない気持ちになりました。彼女の優しさには、今でも本当に感謝しています。今晩お世話になる10歳年上のお姉さんは、私たちにソウル観光をさせてくれると言って下さいましたが、私は日本に帰る前に会っておきたい人がいたので子供たちだけをお願いしました。私はその間、その人物とソウル高速ターミナルで落ち合うことにしていました。つづくにほんブログ村

  • 12Feb
    • 別れの挨拶

       帰国のための渡航書を発行してもらった帰り道、私はペンションを経営している友達と「どうやって出国するか?」の作戦を練っていました。今日を含めて3日以内に出国しなければならないので、素早く行動に移さなければなりません。私はいつも日本に帰る時は、前日に仁川国際空港入りして地下にあるチムヂルパンで一泊してから飛行機に搭乗していました。田舎なので、前日に仁川まで行っておかないと飛行機に乗り遅れる可能性があるからです。しかし今回は用心する必要がありました。最悪チムヂルパンで彼に捕まる可能性もありましたから。ソウルから帰った日、私は韓国に渡ってくる時に買った大きなスーツケースの中に出来るだけの冬服を詰め込みました。冬服はかさばるので、いくらも入りません。夏服はもう諦めました。今から郵便局に行って送る時間もありませんでしたし、子供たちもすぐに成長してしまうので結局新しく買うハメになるだろうと思ったからでした。荷物を詰めたスーツケースを家に置いておくとバレてしまうので、全てその晩にペンションの彼女の家へと運びました。あとは、明日彼が出掛けたのを見計らってペンションの友達が私の家に迎えに来る手はずになっています。その足でソウルに向かい、空港の近くに住んでいる彼女の友達の家で一晩お世話になった後、出国期限ギリギリで日本に帰るという計画を立てました。この村で過ごす最後の夜。私はハルモニの家に行きました。そして、今までのお礼と日本に帰ることを伝えました。「お前だったら、どこに行ったって上手くやっていけるだろう。だけど・・・本当に寂しくなる・・・・。」ハルモニの目から涙がポロポロと溢れ出します。悲しい思いをさせてしまって、本当に申し訳ない気持ちになりました。何も恩返し出来ずに、こうして別れることになるとは・・・。ハルモニは、子供たちを強く抱きしめながらこう言いました。「ちゃんとオンマを助けてあげるんだよ。お前たちだったら日本に行ってもきっと大丈夫。私の家でここまで大きくなったのにのぉ・・・・。こんな可愛い子供たちと奥さんに、こんなツライ思いをさせるあの男は何を考えているんだか・・・。もし、ハラボジが生きていたらぶっ飛ばしていただろうよ。」きっと明日は、ろくに挨拶も出来ずに出ていくことになるでしょう。ペンションの彼女が協力したと知れば、彼女に危害が加わる可能性もありましたから、出来るだけ短時間で移動を済ませなければなりません。ハルモニに別れの挨拶をした後、特にお世話になったご近所のお婆さん達にも挨拶をしました。皆さん涙を流しながら、私の手を掴んで別れを惜しんで下さいました。明日、家族に捨てられる彼はそんなこともつゆ知らず、いつものようにベロンベロンに酔っぱらって寝息を立てていたのでした。つづくにほんブログ村

  • 09Feb
    • 帰国のための渡航書

       2日後、給料が振り込まれるのと同時に日本行きのチケットを購入しました。姉に頼んでおいた戸籍謄本が到着するまでの時間や、ソウルにある日本領事館に行くタイミングなどを考えて日付を決めました。東京へ帰るには、仁川国際空港から成田に行く方法が一番安く帰れます。振込まれた給料12万円で、親子3人が東京までたどり着かなければならない訳ですから、少しの無駄遣いも出来ません。翌日、姉に頼んでおいた戸籍謄本も到着しました。ソウルに行くとすると一日がかりになるので、私は明日領事館へ行くことにしました。既に仕事を辞めていましたが、毎日出勤するフリをしては近くでペンションを経営している友達の所に隠れていました。私が職場を辞める事をバンドの彼女から知らされていた彼でしたが、まだ職場に通っていると思っていたようでした。いえ、そう思わせておく必要があったのです。どんな形であれ、邪魔が入るような事があってはなりませんから。まぁ、でもこの嘘も彼にバレるのは時間の問題でしたので急ぐしかありません。一夜明けて、私は行動を開始しました。出勤する時間に家を出ます。ペンションを経営している友達が、もともとソウル出身の人なので運転も道もよく知っているので、車で日本領事館に向かうことにしました。夕方までには帰って来なければならないので、本当に助かりました。領事館に到着すると、1階にパスポート写真を撮ってくれるお店があります。そこで写真を撮り、全ての必要な書類が揃いました。8階に上がり、必要な書類に記入して申請を済ませます。約2~3時間後に受け取りが可能だという事だったので、その間私たちは食事をしたり簡単にソウルを観光したりして時間を過ごしました。指定された時間に戻ると、「帰国のための渡航書」が無事に発行されたのでした。これにより、今日から3日以内に出国しなければなりません。さぁ、どうしたら無事に出国できるのか?私は、ペンションの彼女と一緒に作戦を練りながら家路に着きました。つづくにほんブログ村

  • 07Feb
    • 求めよ、さらば与えられん

       パスポートがないことに気づいた私は、愕然としました。どうしよう・・・。このままじゃ、日本に帰れない・・・・。一瞬頭がパニックになりましたが、何か方法はないのか?と自分の心を落ち着かせました。受話器を取り電話を掛けます。そこは、在韓日本国領事館。「もしもし、パスポートを紛失したのですが再発行はどうしたら良いでしょうか?」「再発行ですか?」「一週間後には帰国したいのですが・・・。」「それだったら、帰国のための渡航書を申請されて下さい。」「帰国のための渡航書?」「パスポートの再発行だと一か月かかりますが、帰国のための渡航書でしたら当日お渡しが可能ですよ。」私は、まだ道が残されていることに安堵しました。「その、帰国のための渡航書を申請するためには何が必要ですか?」「先ずお近くの警察署へ紛失届を出して下さい。それから戸籍謄本と、飛行機のチケットが必要になります。あと、写真も撮って来てくださいね。それから、この渡航書が発行されたら3日以内に出国しないといけませんのでお気を付けください。」と、さすが日本領事館は親切に教えてくれます。私は直ぐに警察署に行って、紛失届を出しました。それから、日本にいる姉に戸籍謄本をEMSで早急に送ってくれるように頼みます。日本に帰国したら、姉のアパートに転がり込むことはお願いしてあったので、姉も気持ちよく協力してくれました。姉のアパートには、その当時母も同居していました。母は、教会の公費と雀の涙ほどの年金で生活をしていたので、姉の助けなくしては生活ができない状況でした。父が亡くなった時に、まとまったお金を貰っていたのですが全て献金してしまったので、70歳近い母には貯金が一銭もありませんでした。母と再び同居することになるのは気が引けました。何故なら、日本に完全に帰国する私に対して、圧力をかけてくる事は分かっていたからです。しかし、頼る場所はそこしかありません。姉は韓国での私の生活を実際に見ていましたので、本当に傷ついて帰ってくるのだから「教会に行け」とか「信仰が足りない」とか間違っても攻めるような事は言うなと、釘を刺しておいてくれていたようです。給料日は2日後。飛行機のチケットを買わなければ、帰国のための渡航書の申請は出来ません。それから、子供たちの学校にも日本へ帰ることを伝え、転校届を書いてもらいました。これは、後に日本の学校に入学させる時に必要になります。私は給料日まで、とにかく静かに静かに。無事に日本に帰れることだけを祈っていました。つづくにほんブログ村

  • 03Feb
    • ここまでか

       信頼を寄せていた二人と、職場のチームリーダーにしか日本に帰ることを伝えていませんでした。私はとにかくお給料日が来たら、飛行機のチケットを買って直ぐにでも日本に帰国しようと考えていたので、ハルモニにさえもまだ話をしていませんでした。しかし、チームリーダーから部長に話が行くと、職場の中であっという間に広まっていったのです。私は、同僚たちに「辞めて日本に帰るのか?」と聞かれましたが、あくまでも「誤解です。」と嘘をつき通しました。日本に無事に帰れるまでは、誰も信用できない。統一教会の人たちは、韓国の地がイスラエルの地だと思い込んでいます。韓国の民はイスラエルの民であり、離婚して日本に戻ることなどサタン中のサタンだと思われていました。ですから、私が日本に帰ってこの祝福結婚を破棄するとなれば、これはもう一大事です。バンドのリーダーの彼女は、夫はもちろんのこと教会長にまで私が「日本に逃げるようだ。」と告げ口をしました。彼女にしてみたら、これは報告なのです。私は何度も教会に呼ばれて説教をされましたが、しらを切り通しました。夫も最初は、私を脅迫してきました。「お前が日本に帰ろうとしている事は分かってるんだからな。子供(2人目)だけは、絶対に渡さないからな!空港にお前たちが出国できない様に通報してあるから、韓国を出ることは無理だ!空港に行ったって無駄だぞ!」その内に夫は脅迫をやめ、余裕さえ醸し出すようになったのです。これは、絶対何かある!とても嫌な胸騒ぎがしました。私が本気で日本に帰ろうとしていることは分かっているのに、あれだけ余裕綽々な態度。ふと、私は箪笥の奥の方にしまってあったパスポートが気になりました。パスポートを失くしては日本に帰れないので、私は箪笥の奥の方にきんちゃく袋に入れて大切に保管していたのです。箪笥を開けてきんちゃく袋を覗くと、何度確認しても私のパスポートだけが見つかりません。子供たちのパスポートは、韓国のも日本のもちゃんと揃っているのに、私のパスポートだけが見当たらないのです!しまった! やられたか!彼にしては機転が利き過ぎています。きっと誰かに吹き込まれたのでしょう。私のパスポートを隠してしまえば、韓国を出国することが出来なくなる。一週間後には、給料日が迫っています。ここまでか。私はその場に、立ち尽くすしかありませんでした。つづくにほんブログ村

  • 02Feb
    • 無事に日本へ帰れるのか?

       日本に帰国することを決心した私ですが、ド貧乏生活を送っていたので貯金など一銭もありませんでした。飛行機のチケットを買うには、次の給料日まで待つしかありません。給料日が来たらすぐに飛行機を予約して、日本に帰ろうと計画したのです。日本に帰国することは、師匠と文化院の事務局長だけにしか伝えませんでした。日本に帰る前に一度3人で食事をしようと言う事になり、また変な噂が立つと困るので村から車で20分くらい離れた場所で集まりました。師匠は、私が日本に帰ることを強く反対しました。離婚したとしても、韓国の地で頑張って生活して欲しいと説得されましたが、事務局長の意見は全く反対でした。「ヒョン(アニキ)、だけどそれってとても無責任な発言じゃないか?そりゃあ、韓国に残ってこのまま俺たちと一緒に活動をして欲しいという気持ちはあるけど、だけど情だけでここに残れって言うのは俺は無責任だと思う。だって、俺たちがコイツに何もしてやれないだろう?ヒョンが生活費出すわけじゃないんだし、ここに残れって言うのはコイツにとっては酷な話なのかも知れないじゃないか。だったら、生まれ親しんだ日本に帰る方が良いのかも知れない。気持ちよく送り出してやろうよ。ここであった出来事を、思い出にして暮らすって言うのも人生の中ではありなんじゃないか。」それを聞いた師匠は、渋々納得した様子でした。これが、私たちが3人で集まって食事をした最後の日となりました。次に、職場のチーム長に退職する旨を伝えに行きました。チーム長は驚いた様子で、やはり私に韓国に残ってこのまま仕事を続けるように勧めました。「旦那さんと別居して暮らすって言うのはどうなの?」「別居して暮らしたとしても、同じ村に住んでいる以上はお酒を飲んで乗り込んでくるのは目に見えています。そんな事が繰り返されるのは、もう精神的に耐えられそうにありません。」「お客さんからの評判も良いし、私としてはここに残って続けてもらいたいわ。」「とても有難いのですが、来月日本に帰ります。もう決心しました。ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします。」「とっても残念ね。だけどあなたのご主人の噂は聞いていたから、とても大変なんだろうなとは思っていたの。もう少し私が気を使ってあげてれば良かったわね。もし、あなたの気が変わったら来年まであなたの席は取っておくから、いつでも戻って来てね。」「ありがとうございます。でも、恐らくもうここには戻って来ることはないと思います。」「一つ、貴女のためにこれだれは言っておくわ。子供は・・置いて行きなさい。これは貴女の為よ。子供がいたら、人生の再出発はしづらくなる。貴女の人生を思ったら、子供は韓国に置いて行きなさい。」確かに韓国では、女性が子供を置いて出ていくパターンが多いのです。だけど、私は自分の人生を優先して子供を捨て一生後悔して生きて行くよりも、生活が苦しくても子供たちと共に生きていく道を選びました。その日から、私は日本に無事に帰れることだけを考えました。必要のないものは少しずつ処分し、人との関りもなるべく持たないように心がけました。しかし、ここに落とし穴がありました。職場に伝えたことにより、あの日本人の彼女の耳にも私が日本に帰ることが知れてしまったのです。私はとてつもなく、嫌な予感がしました。そして、その予感が的中することとなるのでした。つづくにほんブログ村

  • 31Jan
    • 人の不幸は蜜の味

       とにかく田舎の人たちは、娯楽が少ないからなのか噂話が大好きでした。人の不幸は蜜の味なのでしょう。そんな田舎町出身の金君は、この噂好きな村の人たちが大嫌いだと言っていました。都会では箸にも棒にも掛からない事も、ここでは本当に大袈裟に広まっていくのです。周りからの心無い言葉。「お前、年上好きなのか?」「日本人と寝てどうだったか?」特に韓国の男性たちは日本のセクシービデオを大好きで、日本人=性的にオープンであると考える人たちが少なくありません。韓国は儒教国家ですから、表向きは純潔を装っていますが裏では驚かされる事もありました。実際に私も同僚のキリスト教会で長老をしているオッサンから、「愛人にならないか?」と何度もしつこく誘われたことがありました。愛妻家で有名で、教会活動も積極的にこなしている50を過ぎた人でした。気持ち悪くて、気持ち悪くて、なるべく一緒に勤務しないよう調整してもらいました。日本だったら、完全にセクハラでアウトです。話が横にそれましたが、金君に話を戻すことにしましょう。彼はとても傷ついていました。若かった彼にしてみたら、耐えられなかったのだと思います。傷心した彼は、「こんな所に住んでいたくない」と都会に職場を見つけて、村を出て行ってしまいました。雨の降る日バンドも、彼が抜けたことにより自然消滅するしかありませんでした。たった一人の思い込みが色んな人を傷つけて、色んな人の人生を狂わせた。あの時、そう教祖が死んだあの時に私が日本に帰っていたら、金君は傷つかずに済んだのかも知れません。私は人が怖くなりました。誰を信用したら良いのかも分からなくなり、ろくでもない噂が流されると思うと誰とも顔を合わせたくないと思いました。そして私は、日本に帰ることを決心したのです。つづく にほんブログ村

  • 30Jan
    • 姦通罪

       勤務中にスマホが鳴りました。誰だろうと思ってみると、バンドメンバーの金君からの着信でした。「もしもし? どうした?」「ヌナ(お姉さん)・・・・。」「どうした? 何かあった? 元気ないじゃん。」弟のように可愛がっていた金君の声が、何だかおかしいのです。「ヌナ・・・・僕・・・よく分からないんだけど・・・・。ヌナの旦那さんから連絡貰ったんだ。」「えっ!? 電話番号知らないはずだけど・・。何の用で電話したのかな?」「僕も突然で・・・良く分からないんだけど・・・・。ヌナの旦那さん、僕がヌナと不倫してるって思い込んでるみたいなんだ。」「はっ??? 何で????」私は、全然状況の把握が出来ませんでした。「ヌナ・・・、旦那さんが僕を姦通罪で刑務所にぶち込むって・・。すごい剣幕で怒ってるんだけど・・・。僕の事務所にもこれから乗り込むって・・・。酔っぱらってるみたいなんだけど・・・・。僕も意味が分からなくて・・・・。」「ゴメン、ゴメンね。誰かに吹き込まれたのかも知れない。何もやましいことないんだし、そんな脅しに怯える必要ないから!帰ったら、何でこんな事になったのか聞いてみるから。もし、仕事場に乗り込んで来た時はすぐに連絡頂戴ね!」私は電話を切りました。彼は、山の中で生活しているようなものでしたから噂など耳にする機会もないはず。なのに、何故に金君にそんな電話を掛けたのだろうか・・・・。彼に告げ口するような人間は、絶対あの人しかいない。勤務を終えて家に戻り、私は彼に今日の電話のことを問いただしました。「ねえ!どうして金君にあんな脅迫めいた電話を掛けたの?」「うるせぇ~! お前が不倫していることは分かってるんだからな!!」「誰があなたに、そんなくだらない吹聴をしたの?」「あいつだよ!お前と前にバンドを一緒にやってたMって女だよ!今日、俺に会いたいって電話が来て会って話したんだよ」やっぱり、彼女だったのです。彼女の行動は、手に取るように分かりました。私が新しいバンドを始めた事で、いよいよ取り返しのつかない道を歩き始めたと思ったのでしょう。旦那の人間性を考えたら、彼に吹聴することは最善策ではないと言う事は子供にでも分かることです。私が彼によって苦労していた事を、誰よりも知っている彼女でしたから。しかし彼女は、その判断もできずに「彼女が男と蒸発するかも知れない」と伝えたのです。ここまで来ると、善意の押し売りも良いところです。本人はさぞかし、「アベルである私が救わなくちゃ」と正義感に燃えていたことでしょう。でも、何で全く関係のない金君が標的になったのでしょうか?「あのさ、私にどうして確かめないの? 彼女の言うことの方が正しいと思ったんだね?そうか、妻である私がそう言う行動を起こすと思ったんだね?なるほどね。あなたが私をそう言う人間だと思うのは自由だけどさ。だけどね、金君は全く関係ないからもう脅迫じみた電話を絶対に掛けたりしないで。」「俺はなぁ、あいつをこの村から追い出すまで脅迫し続けるからな!!!」アル中のイカレた男。一丁前に嫉妬でもしているのか、それとも男としてのプライドが許せないのか。どうやら彼は、昔から知り合いだった金君を勝手に私の不倫相手だと思い込んだようでした。彼は、私の職場にも酔っぱらって乗り込んでくるようになり、金君にも脅迫電話をし続けました。職場の同僚から、こんなことも言われたのです。「お前のお義父さんが、警察に姦通罪でお前と金君を訴えたって噂が流れてるぞ。もうすぐ警察の捜査が入るって。本当なのか?」私は言葉を失いました。彼女たちの狂った正義感のお陰で、私はもう犯罪者にまで仕立て上げられていたのでした。つづく※韓国では2015年2月に姦通罪は廃止されました。にほんブログ村

  • 29Jan
    • 堂々と生きたい

        リーダーの彼女とは、職場も一緒でしたのでバンドを脱退したと言っても気まずい日々が続きました。仕事は仕事と割り切って過ごしてはみるものの、彼女に監視されているようでとても嫌な気持でした。なかなかバンドのボーカルが見つからずに、彼女から何度も戻ってくるようにと説得をされたのですが、私はもう関わりたくなかったので一切拒否しました。ボーカルが見つかなかろうが、見つかろうが私にはもう関係のないことでした。季節は秋になっていました。そんな頃、連絡を絶っていた師匠から電話を貰いました。「新しいバンドを組んでみないか?」というお誘いでした。私と関わるとろくな噂を流されないと知っていながら、友達として落ち込んでいる私を励まして下さろうとしていたのだと思います。メンバー構成は、韓国人3人の中に私がボーカルとして入ると言う話だったので、それだったら構わないだろうと自分のやりたいバンド活動を再び始めることにしたのです。メンバーは、前に働いていた社会的企業の石鹸工場時代から知っている年下の金君と、写真家の全さん、それから師匠と私でした。金君とは、昔からよく知っている仲だったので気兼ねなく付き合えました。私たちはバンド名を「雨の降る日」と決めました。大きな公演をするのではなく、発表会前の前座など必要とされる所に出向いてボランティアで活動を始めました。何を言われようと、私たちは音楽性が一致して活動を共にしていた仲間なのであって、恋愛感情など存在しませんでした。それなのに、罪人のような噂を流されその噂に負けてしまっていた自分が情けなくもありました。やましいことはないのだから、堂々としていよう!私は新しいバンドの活動を始めて、再び音楽と友を取り戻していったです。季節は秋から冬に移ろうとしていました。そんな時です。私が新しいバンドを始めた事を知ったリーダーの彼女は、私がもう多国籍バンドに戻る意思がないことを悟ったようでした。それと同時に、私が一番恐れていた大迷惑行動を起こしたのです。つづくにほんブログ村

  • 28Jan
    • 昨日の友は今日の敵

       私は心の底から傷つきました。統一教会を通して出会った韓国人夫から、DV、経歴詐欺、アルコール依存症、働かない、借金、蒸発等々。2度の祝福を通してボロボロに傷ついていました。その赤くただれた傷口に、彼女たちは更に塩を塗り込んで来たのです。その噂のせいで、師匠は職場の上司からもお咎めを食らったようでした。私は本当に申し訳なくて、これ以上迷惑は掛けられないと師匠との連絡を一切断つことにしました。全く事実でないことに対して、私たちがどうして責められなければならないのでしょうか?私はもう、彼女たちと共に多国籍バンドを継続していく事など考えられませんでした。元々このバンドは、多文化センターの取り組みの一つで組まれたものですから、辞めるのも本人の自由です。私が多文化センターの職員に、この取り組みの参加を辞めてバンドを脱退したいと申し入れました。理由は、相互の信頼関係が崩れたからです。これ以上、彼女たちにも関わりたくありませんでした。センターの職員の方は、渋々私の脱退を許可してくれました。しかし、センター長は私の脱退を認めては下さいませんでした。毎晩のようにセンター長からの呼び出しがあり、バンドに残る様に説得されました。それは、バンドの中で誰よりも一生懸命取り組んでいた事を、よくご存じだったからです。才能寄付コンサートに私を誘ってくれた、文化院の事務局長からも謝罪を受けました。君の喜びをこんな形で奪う事になってしまって、本当に申し訳なかったと謝られました。日本人のバンドのリーダーの彼女は、韓国人の方たちからも「変わり者」として認識されていたので、私が事情を話すとみんな納得して下さいました。それは彼女が、統一教会の教えこそが「善」であり「真」であり「正しい物」であり「正義である」と言う思い込みが激しく、絶対に譲らない部分を持っていたからでした。そんな所が、いつも母の姿と重なっていたのかも知れません。センター長の言葉はとても有り難かったのですが、もう私の心は限界に達していました。昨日の友は今日の敵。こんな風に仲間から、深く傷つけられるとは思ってもいませんでした。一生懸命やっていた分、私の心はもう彼女たちを受け入れる事など出来ませんでした。私の脱退がメンバーに伝えられると、今度は態度を変え「バンドに残って欲しい」と言うのです。要は、「自分たちは堕落したあなたを、真の愛で受け入れてあげる」と言う事なのです。冗談ではありません。人をこんなに傷つけておいて、どこまで傲慢な人達なのでしょうか?私から音楽を奪い、友を奪い、自由を奪った彼女たちをそう簡単に許せるものではありません。彼女たちの広い広い真の愛を蹴って、私は強硬にバンドを脱退しました。そして、私は私らしく私のしたい事をこれからは見つけて行こうと決心したのでした。つづくにほんブログ村

  • 27Jan
    • 人の噂も75日?

       私自身「裏切者」のレッテルを貼られる意味が、よく分かりませんでした。私のしたかった事に参加しただけで、お金を貰った訳でもありませんでしたから。多国籍バンドは多国籍バンドで、別のものだと考えていました。それでも、メンバー全員が私に対して怒りを露わにして来ました。特に日本人の母に似ているあのバンドのリーダーのご立腹は、相当なものでした。何で私に報告しないの?何で私を誘わないの?バンドのリーダーは私でしょ?これが彼女のご立腹の原因でした。彼女は、完全に私のアベルになったつもりでいたのです。私は、ご主人を亡くしたばかりの彼女を誘う事は出来ませんでした。喪に服している人間が、人の集まる舞台の上で楽しそうにしているのも可笑しな話です。統一教会で死は喜びかも知れないけれど、一般の人たちはそうは見ない、彼女にとってはマイナスイメージになると思ったからでした。しかし、このコンサートが成功裏に終わったことで、私だけ抜け駆けしたように映ったみたいでした。もともと、多国籍バンドは統一教会のメンバーで成り立っていましたから、既に私とメンバーとの絶対的価値観がズレてきていました。結局私は、バンドのメンバーから総攻撃を受けました。すると、ある日こんな噂が私の耳にも届いたのです。私が、「バンドの師匠に恋愛感情を持っている」と言う噂でした。二人で舞台に立ったことが噂の原因になったのかなと、その時は考えました。田舎の人たちは、噂話が道楽みたいなところがありますので仕方ないのです。私たちのバンドの師匠は公務員で、公務員バンドのリーダーをしていました。技術的な面でサポートをして下さったり、公演の準備を段取りして下さったりしていました。そんな中で音楽の事を語り合い、お互いに音楽の方向性が一致して才能寄付コンサートに共に参加しただけの事です。恋愛感情を持つ事など一切ありませんでした。親分肌でとても面倒見が良い方だったので、私は随分この方に助けてもらっていた事は事実です。そんな噂が流れ始めて、最初は師匠も苦笑いをしていました。「俺にだって、選ぶ権利はあるよ。」いやいや、それはこちらのセリフですって。ジャイアンにそっくりだった師匠は、正直私のタイプではありませんでした。「あなたが頑張っているからこそ、人から嫉妬を買ったりする事もあるんだ。だから、自分が頑張ってる証拠なんだって笑い飛ばしたら良いよ。言いたい奴には言わせておけ。有名人は辛いな~」と冗談混じりに慰めてもくれました。人の噂も75日。噂好きな人達であっても、75日もすれば忘れるはずです。しかし、忘れるどころか話がドンドンドンドン大きくなっていくではありませんか。二人は付き合っている。不倫している。あの二人は駆け落ちするんじゃないか。ありもしない事が、あった事の様に言われ始めたのです。誰がそんな噂をまき散らしているのか?私は知りたくて仕方がありませんでした。すると、ある友達から「あなたの噂の根源はバンドのメンバーだよ」と教えてもらったのです。要するに、私がアダムエバ(男女の問題)を起こしている!って話になったようなんです。統一教会員らしいと言えば、らしいのかも知れませんね。そう言う方向に、無理矢理こじつけるのは。でもね、根も葉もない事を勝手に想像して勝手に噂を流された私にしてみたら、名誉棄損の何物でもありません。だけど彼女たちはあの独特な世界の中で、それが絶対だと思って生きている訳ですから、私はさぞかし淫乱な女に映った事でしょう。失笑しか起こりませんでした。どういう想像をしたら、私が師匠と駆け落ちまでする仲になるのですか?妄想って、恐ろしいですね。だけど、これが笑いごとでは済まされない方向にまで進んで行くことになるのです。つづくにほんブログ村

  • 26Jan
    • 私は裏切者だったのか?

       時は、2013年の夏になっていました。私はバンド活動の中で、打ち合わせに参加する事で色々な友達を作ることができました。ほとんどが韓国人で、とくに男性が多かったんですね。今まで教会に通っていた時は、男性と話してはいけないとか、男性と目も合わせてはいけない的なマインドコントロールを受けて来たので、男友達は作ることが出来ませんでした。でも、マインドコントロールが解けた今は、そんなの関係ねぇ~(笑)特に韓国人女性は気性が激しく、強い女性が多くて友達付き合いも色々大変でした。男の人たちの方が、さっぱりしていて気兼ねなく友達付き合いが出来たんですね。女性だけの職場よりも、男性の多い職場の方が何となく気が楽なのと同じような感覚です。特に私の友達になって下さった方たちは、私が外国の地で寂しくないようにと色々と気を使って下さいました。旦那も祝ってくれない誕生日に、仲間を集めてパーティーを開いて下さったり、韓国文化観光解説士の仕事に役立てばと、歴史文化に触れる機会を与えて下さったり、時には気分転換にと映画館に連れて行ったりもして下さいました。一人で勤務している日には、一人でご飯を食べるのは寂しいだろうとお昼をおごって下さったり。皆さん私を妹の様に可愛がって下さいました。多文化家庭と言えば、手を差し伸べてあげなければならない可哀想な人たちと言う認識が広がっています。案の定、私たちの家庭もド貧乏でしたし、旦那にも恵まれない可哀想な人の中に、私も分類されていたと思います。多文化家庭は、それに甘えて「助けてもらうのが当たり前」になっていました。私はそれがすごく嫌だったのです。私にも誰かの力になれる事があるんじゃないか?といつも考えていました。そんな時、バンドを通じて知り合った文化院の事務局長からこんな提案をされたのです。自分たちは、「才能寄付コンサート」を企画していると。君も歌で参加してもらえないか?と提案されました。私にはお金を寄付する余裕はありませんでしたが、歌を唄う事で誰かの助けになるのであれば、それはとても素敵な事だと思いました。5回ほどの公演がありましたが、ボランティアなので一切お金は支給されません。それでも私は、喜んで参加しました。最初は多国籍バンドで参加できたらと思いましたが、日本人のリーダーは旦那さんが急逝したばかりでしたし、タイのメンバーはお店を営んでいたので無理だと思い、残りの二人に声を掛けました。最初は、3人で何か出来ないか?と考えていました。しかし事務局長からのお願いで、それぞれ得意な分野で別々にステージに立って欲しいとお願いされたのです。見る側の人が、様々な楽しみ方が出来るようにとの事でした。フィリピンの子は、ギターが得意でしたので弾き語りを。もう一人のメンバーは、音大でフルートを専攻していたのでフルートの独奏をと言われたのです。私は楽器が弾けないので、バンドの師匠と二人で組んで参加することにしました。師匠がギターを弾いて、私が歌を唄う事になりました。しかし、彼女たちは3人で演奏できないならば参加しないと言い出しました。そして、コンサート3日前に急にドタキャンしたのです。私はコンサートの準備等も手伝ったりしていたので、彼女たちがドタキャンしたのはとても残念でした。でも、彼女たちの意思もありますし、趣旨に賛同できなければ仕方がないと思いました。一から舞台を作る裏方の仕事も楽しかったです。何よりも自分が助けてもらうだけでなく、誰かの助けになれる事に私個人は貴重な体験をさせて貰えたと思っています。実際に、才能寄付コンサートはとても成功裏に終わりました。だけど、ここで問題が勃発したのです。私がボーカルを務めていた、多国籍バンドのメンバーから「裏切者」のレッテルを貼られてしまったのです。つづくにほんブログ村

  • 24Jan
    • さようなら、ハラボジ

       病院から強引に退院してきた私ですが、家に帰ってくると帰ってきたで、動かざるを得ない状況になるんですよね。まだ骨はくっついていなかったので、あと一週間ほど職場を休むことにしました。そんな時です。ハラボジが天国に召されたのは。もともと長い農作業のせいで腰が悪かったハラボジでしたが、ここ何か月かで一人では起き上がれない状態になっていました。そんな中でも、子供たちを見て下さったハルモニの優しさに頭が下がります。寝たきりになってからは、食事もまともに採れなくなり、日々衰弱していく様子が分かりました。父よりも偉大な愛情で、私たち家族を見守り愛して下さった方です。言葉数は少ない方でしたが、一つ一つ発する言葉にはとても重みがあって見習う所が沢山ありました。たまに訛りがひどくて聞き取れなかったりする事もありましたが、それでも私はハラボジのお話が大好きでした。雪が降った朝、誰よりも早く起きて私たちの住んでいたプレハブの入口を雪掻きして下さったり、子供たちの頬に伸びた髭をジョリジョリとさせては一緒に遊んでくれたり、赤の他人の私たちをまるで家族の様に迎え入れて下さった優しい方でした。集落の人の反対を押し切って、日本人である私を受け入れてくれたのもハラボジです。そのハラボジの愛情を、絶対に裏切ってはならないと思いました。私の戻る場所を作ってくれていた、ハラボジとハルモニには今でも感謝しています。どんなにツライ事があっても、二人の顔を見て話していると不思議と私は癒されました。統一教会によって韓国に渡って来て、実父の死に目には会えなかった私ですが、命の恩人であるハラボジの最期を共に看取れたことは本当に良かったと思っています。一人になったハルモニは、最初の頃はすごく落ち込んでいました。ハルモニが私たちにして下さったように、私たちもハルモニの力になれる時が来たのです。なるべく寂しくないように、出来る限り子供たちとハルモニの家で過ごしました。小さな小さな恩返しかも知れないけれど、私にできる事と言ったら「少しでも寂しくないように共にいること」だったんです。ハルモニはそんな私たちに、こう言うのです。「ハラボジは、最後までお前の事を心配していたんよ。日本からお嫁に来て、可哀想だといつも言っていたんよ。だけど、お前だけは恩を忘れずにいてくれることに、ハラボジはとても感心していたよ。子供たちが必ずお前の力になってくれる時が来るから、頑張るんだよってね。」面と向かって話してはくれなかったけれど、ハラボジは夜になるといつも私たちの話を寝ながら話していたそうです。ハラボジ、本当にありがとう。悲しいけれど、あなたが残してくれた言葉は私の大切な宝物です。つづくにほんブログ村

  • 23Jan
    • さらなるアクシデント⑤

       私は最初、入口近くのベッドに移るように指示されたのですが、1時間としないうちに一番窓際のベッドに移るように言われました。その理由は分からないのですが、その病室にいた人達はみんなお婆ちゃんたちでした。もしかしたら、日本人の私が隣に来るのが嫌だったのかも知れない。もしかしたら、新入りを警戒していたのかも知れない。もしかしたら、私には分からないルールがあったのかも知れない。とにかく、痛いのに荷物を何度も移動しなければならなくて参りました。さてさて、沢山の予想コメントありがとうございました!「たりない物」とは、そうカーテンだったんです。今までも入院したことはありますが、こんな病室初めてでした。同室に6人もいるのに、プライバシーが一切保てなかったんです。外国人である私のする行動は、一挙手一投足を全て観察されていました。私がいなくなると、廊下に聞こえてくる私に関する噂話。御見舞に貰ったジュースを一人一人に配ったり、何か食べたい物があった時は、目立たないようにロビーで食べたりしてとにかく気を使いました。その上、韓国人は声が大きい。昔まだ韓国語が分からなかった時、あちこちで喧嘩をしているように聞こえたものです。韓国語は日本語と違って、お腹から発する発声法なので、声が大きくなるのは仕方のないことなのですが。しかし、うるさい!就寝時間など、あるようでないのも同然です。しかも、みんな病人だからワガママになったり、ヒステリックになっているんですよね。一番耐えられなかったのが、夜になると部屋に一つしかないテレビの取り合いが始まるんです。「私は、こっちのドラマを見るんだ!」「そんなのより、こっちの番組の方が面白いから変えろ!」看護師さんを捕まえては、誰々があ〜だこ〜だ。病院に対する不満をぶつける人もいました。それはそれは、休める環境ではありません。静かな二人部屋から来たので、予想だにしなかった展開です。入院してから2週間。6人部屋に移った事で、私の精神状態は崩壊寸前でした。耳をふさぎたい!ここから、出たい!そんな事しか、考えられなくなっていました。韓国に住んで7年。少しは文化の違いにも、様々な壁にもぶつかって来ましたが、今回だけは無理。無理だぁ~!そんな時、担当医から外来の診察室に来るように言われました。「どうですか? 骨がくっつくまでは、最低一ヶ月はかかるから、無理はしないようにね。」限界に来ていた私は、意を決して担当医にこう言いました。「先生、退院させてもらえませんでしょうか?病院にいても寝ているだけですし・・・・。家に帰って寝ていても同じ事ですから・・・。良いですよね?」担当医が、キョトンとしています。流石に、「病室が耐えられない」と言えない所が小心な私なんです。「えっ!? 大丈夫?退院するのは構わないけど、本当に本当に大丈夫?もし、家に帰って痛みに耐えられなかったら、戻って来てよ」やった~!この呪縛から開放される〜。その日の午後、退院する事が決まりました。精算を済ませ、思ったより入院費が安かったのに驚きつつ、職場にも今週中に復帰する旨を伝えました。出勤途中の怪我だったため、職場から保険がおりるそうで一安心。病室に移ってきたばかりの私が、退院の準備をするのを見た同室のお婆ちゃん達もキョトンとしています。帰りは、病院の目の前にあるバスターミナルから家路に向かいました。やはり、40分座っているのは辛かった。後々、尾てい骨が完全にくっつく前に「歩く事」が重要だと知りました。動かないでいると、骨が曲がってくっついてしまうらしいのです。歩くことによって、骨が中央にくっついてくれるのだそうです。骨折から一ヶ月もせずに、私は職場復帰をしました。稼がなくちゃ!そして、歩かなくちゃ!入院費は保険で賄えても、生活費はどこからも出ませんから・・。私には現実の方が重かったのです。そして、二度とあの病院には戻りませんでした。後に、日本に帰って来てから尾てい骨を診ていただきました。ちゃんと真っすぐにくっついていると言う事でしたので、ご安心くださいませ。つづくにほんブログ村

  • 22Jan
    • さらなるアクシデント④

       寝てることしかできなかった私の、唯一の楽しみが食事でした。また、幸いなことにトイレが病室の目の前にあったので本当に助かりました。点滴を刺しながら、コロコロ歩くのは本当に骨が折れますからね。怪我をしてみて気づく、健康と言う有り難さ。毎日のように担当医が回診に来るのですが、私は寝てるだけの治療なので挨拶だけして帰って行きます。何だか放ったらかしにされてるようで、寂しい気持ちにもなりました。入院から5日目、痛みが耐えられるくらいになったので点滴が外されました。これでやっと、シャワーができます。食事も上げ膳据え膳。実は、尾てい骨ってとっても重要な骨なのです。「尻尾が退化した」と言う説があって軽く見がちですが、尾てい骨周辺には数多くの神経が通っています。尾てい骨を折ったことにより足に痺れが来たり、女性の場合は将来「子宮ガン」になる確率が数倍高くなると言われている、侮れない骨なのです!入院してから、たくさんの方が御見舞に来てくれました。わざわざ高速道路を飛ばして来て下さるのですから、本当に有り難い事です。韓国は飲み物のセットを御見舞に持って行く事が多いのですが、流石に山積みになってきました。全部飲んだら、糖尿になりそう。話を骨折に戻すことにしましょう。尾てい骨を骨折すると、変な話トイレが非常に困難になるのです。特に、大の方をする時はかなりの激痛が走るらしいのです。らしいって?私、実はそこは全然大丈夫だったんです。不幸中の幸いとでも申しましょうか。だって、流石に毎回それじゃ辛すぎますものね。無事に一週間が過ぎた所で、看護師さんから連絡です。「6人部屋が空いたので、今日の午後に移動しますね〜」そう、二人部屋に2ヶ月は流石に負担が大きくて、6人部屋が空いたら変えてもらうようにお願いしておいたのです。 しかし、この選択がまた不運の始まりになろうとは、予想だにしない展開でした。午後になると、看護婦さんが迎えに来ました。これから、長い間過ごすことになる病室へ移動する為です。もし、あなたが入院した経験があるなら。もし、あなたがお見舞いに行った経験があるなら。この写真の中の病室に、何かが足りないことにお気づきですか?つづくにほんブログ村