問題提起は挑発的、論理は鋭く鮮やか。日本のフェミニズムと女性学を切り開いてきた社会学者の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さんが、半生を振り返る。

朝日新聞インタビュー記事より。






2011年3月、定年より2年早く東大を退職。現在は認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)の理事長を務める=東京都武蔵野市、西田裕樹撮影




ケンカ上手見せた「アグネス論争」


 ――フェミニズムと女性学で、先駆者としての役割を果たされてきました。一般に知られるようになったのは、1988年の「アグネス論争」のころからでしょうか。

 当時、私は地方の短大の教師にすぎなかったけど、朝日新聞に投稿し、売られてもいないケンカを買って出た。いまならSNSで炎上してるんでしょうが、あのころはアナクロの紙媒体しかなかった。その中でも、注目度の高い媒体を戦略的に選びました。

 ――テレビの収録に赤ちゃん連れで現れたアグネス・チャンさんが「甘えている」と批判を浴びていました。

 批判者の林真理子さんは聡明(そうめい)な方だし、中野翠さんも加わって、反対勢力が優勢でした。芸能界のマナー知らずのアグネスたたきというままで決着してはまずい。それに林さんも中野さんも当時子どもがいなかったから、「子持ち女」と「子なし女」の対立という構図を男メディアに作られるのが不愉快で、子なし女もいろいろだよということも見せたかった。

 ――「男たちが『子連れ出勤』せずにすんでいるのは、だれのおかげであろうか」と問いかけましたね。

 男の評論家には、「自分の愛する者を常に連れて歩きたいなら、俺はペットを連れて行く」とか暴論を吐く人もいた。アグネスさんは「歩く中華思想」とかひどいバッシングを受けて沈黙してしまったけれど、去年、月刊誌で26年ぶりに彼女と対談する機会があった。子どもができたら会社を辞めるものだという曽野綾子さんのマタハラ発言などがあって、黙っていられなくなったということでしたね。

 ――「アグネス論争」という言葉が流行語に選ばれるほど、社会的なインパクトがありました。あのとき、上野さんの「ケンカ上手」が印象づけられた気がします。去年も、一方的な講演会中止を撤回、陳謝させた山梨市長との闘い方は見事でした。

 ケンカ上手は、なりたくてなってるわけじゃないんだけどね。あのときは、ありとあらゆる可能性をシミュレーションしました。私は激突型の闘いではなく、獲得できる目標を設定して勝ち癖をつけることが大事だと思ってる。

 ――「負けても正論を貫いた」ではダメだと。

 それじゃ自己満足のマスターベーションです。敗北が重なるとどうしても落ち込むからね。手の届かない大きな目標は設定しない。これは学生運動の経験が反面教師です。

 科学史家のトーマス・クーンが言う「パラダイム転換」はどうやって起きるかというと、論争当事者でなく聴衆が決着をつけるんです。相手を論破する必要はない。どちらに理があるかを聴衆が判断し、それによって社会の常識も変わっていくんです。私は常に戦略的に、敵以上にまわりの聴衆を意識してきました。

(聞き手・樋口大二)=全11回


▼上野千鶴子(うえの・ちづこ) 富山県生まれ。立命館大学特別招聘(しょうへい)教授。東京大学名誉教授。「おひとりさまの老後」は75万部のベストセラー。「スカートの下の劇場」「家父長制と資本制」など多数の著書がある。


(朝日新聞夕刊2015.4.20)





幼いころは、父の意向もあって日本舞踊を習っていた。日舞や謡曲はいまも好きで、講演などでは着物で登場することも多い=本人提供


原点は、専業主婦の母への反発


 ――家族や生い立ちについては一切答えない、としていた時期もあったそうですね。

 子ども時代のことを聞くインタビュアーって、育ちが人格や活動を決定づけるというフロイト的な因果物語を作りたがるじゃない? それが気持ち悪くてイヤだった。この年齢になれば、育ちが人生を規定する以上に、その後の経験が自分を作っている。親からは、受け取ったものもあるし、受け取らなかったものもあります。

 ――お母様に対する反発は強かったと聞きます。

 不幸なことに、こうは決してなりたくないという反面教師でした。長男の嫁で、ワンマンの夫に仕える専業主婦。おまけに恋愛結婚なのに夫婦仲が悪くて、「おまえたち子どもがいるから離婚できない」と聞かされて育った。

 でもあの当時の女には、「母のような人生を送る」以外の選択肢なんてなかった。女が働いて生きるとか、結婚しない女の人生なんて考えられない時代ですから。

 ――上野さんはお母様とは仲が悪かったのですか。

 父が私を溺愛(できあい)するので、母が兄と弟を味方につけた。私は父の威を借りて威張っていたのだけれど、父の寵愛(ちょうあい)につけこみながら父を軽蔑していた。嫌な子どもだったと思いますよ。思春期の娘は母の最大の批判者です。「夫選びを間違った」という母に対して、「夫を代えてもあなたの不幸はなくならない、なぜならそれは構造の問題だから」と思ったのが、私の原点ね。

 ――当時としては、恋愛結婚は先進的なことでしょう。

 父方の祖母は、北陸の敬虔(けいけん)なる真宗門徒。その息子である父は若いときに洗礼を受けてクリスチャンになった。モダニストで土俗から逃れたいという理想主義を抱いてたんでしょう。でも結局、身体にしみこんだ長男規範から逃れられない。マザコンなのよ。嫁しゅうとめが対立すると母親につく最低の夫でした。

 ――ご両親との和解はあったのですか。

 母とは和解しそびれた。私が40代のとき、父がしみじみと「女が仕事を持つというのもいいもんだね」と言ったのは、受容だったのかも。

 ――勝ちじゃないですか。

 結果的にね。私は、処女“喪失”作が「セクシィ・ギャルの大研究」で、下ネタで売り出した。父と母は「お前の育て方が悪かった」「あなたが甘やかしたから」とお互いを責めていた。ところが大学の教師になると、父がそんなことを言い出す。母は自分の人生を全否定されたと思ったでしょうね。そんな親でも私の本を注文して周囲に配っていたというから、親とはありがたいものです。

 ただ私は、18歳で家を出て、できるだけ親元に寄りつかなかったの。私が43歳のときに母は乳がんで亡くなった。介護もしたけど、すでに母は弱者になっていたから追い詰められない。対決の機会を逃しました。だから若い娘たちに言いたいのは、親とちゃんとした大人の関係を作るためには、母が強者のうちに対決しなさいということね。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.21)





小学生のころ。車は父親の最初の自家用車。「父は妻に対しては暴君でしたが、娘である私を溺愛(できあい)していました」=本人提供


未熟な親でも愛してくれたことに感謝


 ――小さいころ、職業を持つという未来を思い描けなかったのですか。

 「お嫁さんになるんだよ」と父に言われて育ったの。専業主婦である母を否定しても、それ以外のモデルが身近にいない。働いてお金を稼いで生きるということの現実感もない。高校3年まで理系進学クラスにいたけど、医学部へ行って好きでもない勉強を6年間もやらされるのはたまらない。世間知らずだったから、進学と就職が結びつくとも思っていなかった。

 ――医者であるお父様への反発はありましたか。

 父の生活を見て、医者というのはつまらん職業だなと思った。食いっぱぐれのない人生は、レールを敷かれているようでつまらないと。

 父は兄と弟に対しては、医学を志すように徹底的にレールを敷いたの。文学部なんて役に立ちそうにもない進路を選び、極道な生き方をしても許されたのは、私が女だったから。息子と違って、父は娘の人生に何の期待もしないし、責任を負うつもりもなかったということだけどね。

 ――富山から、一家で金沢に引っ越されましたね。

 父は雪が嫌いで、本当は神戸に引っ越したかったのね。祖母が反対して金沢にとどまった。高校は旧高等女学校の流れをくむ県立金沢二水(にすい)高校を父が選んだ。お嫁にもらうなら二水卒、と言われたところ。父が女子トイレを事前にチェックして、こちらがきれいだからと決めてきた。

 ――どんな生徒でしたか。

 女の子同士つるまないから友達がいない、でも成績だけはいい、嫌なガキでした。授業中は寝てたけど、放課後の新聞部は高校生活で熱中した活動の一つ。二水高校の新聞部は全国コンクールで優勝したこともある名門で、私は新聞部で社会性に目ざめた。

 高校2年のとき、修学旅行で広島に行って、口をきけないほどショックを受けて。原爆ドームが崩壊の危機で修復資金が足りないと聞き、思い立って募金箱をつくって各クラスをまわったの。その経験を紙面にも書いた。世界遺産になったあのドームの亀裂に流し込まれてるコンクリートの一部を自分が集めたと思うと、感慨があるわね。

 ――お父様との関係はどうなったのですか。

 父は、母の10年後に亡くなった。遠距離介護もしました。子どものときに愛された記憶があるから。それについては、後になって非常に感謝したね。

 息子への愛情に比べたら、私への愛情はペットに対する愛と同じだと感じていた。未熟な親に未熟な愛され方をして迷惑をこうむったとずっと思ってたけど、父が私を愛したときの年齢って、そのときの私よりもずっと若い。友人に「未熟じゃない親っていますか」と言われて。どんな親も未熟だけど、その未熟な親に愛されなかった子どももいる。それなら、愛されただけでも贈りもの。そのおかげで男から愛されることに不安がない。その贈りものをこの人が私にくれた、そう思えましたから。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.22)





1967年3月10日、高校卒業の記念撮影。高校時代から鶴見俊輔さんらが執筆する「思想の科学」誌を愛読。「知的には早熟だけど、性的にはオクテでしたよ」=本人提供


学生運動で味わった女性のジレンマ


 ――進学先に京都大学を選んだのはなぜですか。

 とにかく家を出たかった。地元の金沢大学なら自宅通学になるし、女の子が東京に行くのは許さないという親だったからね。中学生のころは考古学者になりたかった。京大の人文研(人文科学研究所)で、浮世離れした研究ができたら楽しそうだなあと。

 ――考古学とは意外です。

 父が実学指向だったので、逆に世間の役に立たないことをやって生きていこうと考えてた。その時代、四年制大学を卒業した女は、教師か公務員くらいしか就職先はなかったのに、「でもしか教師」になるのもイヤと、教員免許もとらない。現実離れした頭でっかちのガキでした。

 文学部を選んだものの、語学はキライ。死んだ過去を扱う歴史も興味が持てない。社会学は当時、勃興中の学問だった。私は好奇心が強いだけの子どもだったから、生きて動いているものを扱えるならいいかと、消去法で選んだの。

 ――京大に入学した1967年の10月、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対する羽田闘争で、京大生の山崎博昭さんが亡くなりました。

 同学年で同じ文学部だったけど、亡くなる前は面識はなかった。私はそれまでただのノンポリ学生で、生まれて初めてデモに参加したのが、山崎君の追悼デモだったのね。京大の学生運動はその後、あれよあれよと火がつき、11月の第2次羽田闘争で私は赤ヘルをかぶって羽田にいた。

 ――闘争の中でも、女性差別を経験されたのですね。

 現場で自然と性別分業が出てくる。おむすびを握るのは女、逮捕者の救援で差し入れに行くのも女。戦争も闘争も、暴力化していくほどジェンダーの差は際立つ。ゲバ棒を握って革命兵士として男並みになろうとしても二流の男にしかなれないし、そうでなければ女の指定席に甘んじるしかない。近代におけるおなじみの女性のジレンマをしたたかに味わいました。

 そのころ、バリケードの中はフリーセックスの時代。同志だと思っていた男も、ただのオスだったという絶望感。彼らは、性的に活発な女子学生を利用しながら陰で「公衆便所」と呼んでいた。後になってそれが皇軍兵士が慰安婦を呼ぶ隠語だったと聞いたときはショックでした。

 ――京大で学生によるバリケード封鎖が機動隊導入で解除されたのが、69年です。

 大学にまったく行く気がしなくて結局、1年留年した。就職活動をする気にもなれなくて、大学院に「入院」。向学心も向上心もないモラトリアム入院でした。ひとに頭を下げたくない、就職したくないというだけの不純な動機から。東大入試を粉砕して大学解体と言っておいて、大学院に進んだのは仲間の中で私だけ。負い目があります。

 進学を報告に行った教授に「修了したらどうするの?」と聞かれて、「それがセンセイ、なぁーんにも考えてないんです」と答えたら、「女の子はそれがいい」と言われたのを覚えてます。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.23)





大学生のころ。「ゲバ棒を持てと迫られても、女の子はこんなところに来るんじゃないと言われても屈辱。女は引き裂かれてた」=本人提供


「つるんで何するの」リブ運動を敬遠


 ――1970年代の初め、日本でウーマンリブ運動が興ったとき、リアルタイムでは加わっていませんね。

 そう。出合い損ねてる。それだけでなく女同士のコレクティブ(集団)というのが、気持ち悪くてしょうがなかった。大学闘争の中でさんざんつるんでやってきて、それが解体した後、いまさら集まって何をするのという大きな不信感があった。あのころの私は、人がつるんだ結果に絶望して、一人になろうとしてましたから。

 ――リブ運動のさきがけを告げたとされるリブ合宿(71年)にも行っていない。

 小さいときから個室を与えられて育ったから、雑魚寝や相部屋は死ぬほどイヤ。それが身体化されているから、いまも集団行動や団体旅行はキライ。リブ合宿への拒否感はそこから来てるかも。

 ――周りの仲間から誘われることもなかったのですか。

 京都にいたから東京の情報はあまり入ってこなかった。バリケードを解いた後はみんなバラバラになって、男とつがいを作って同棲(どうせい)や結婚に向かった。闘争で男がコケたから、じゃあ女でコレクティブを作ろうとはならなくて、男とつがって家族を作る方にはまっていった。

 ――日本女性学研究会に上野さんが参加するのが78年。初期の女性学は、自分たちはリブではないと自己規定したのではありませんか。

 そんなことはありませんよ。女性学の最も初期の担い手は、大学にいた元学生活動家でしたから。学生運動の中で、活動家の女たちが深く裏切られたのはアメリカでもフランスでも同じで、世界史的経験なのよ。そんな経験から、日本でも初期のリブと女性学の担い手が育っていったんだから。

 ただ、男メディアが作り上げたリブのイメージを嫌い、「私はリブではありませんが」と言い訳する自称フェミニストの女がいたから、リブの女たちがフェミニズムという用語を使わない、という傾向はいまでもあります。

 ――リブとフェミニズムの違いは?

 フェミニズムはかつて「女権拡張思想」とも言われたけど、私は「女性解放のための思想と実践」と定義します。19世紀末から使われてる用語で、第一波は日本を含めて婦人参政権運動に収斂(しゅうれん)していった世界史的な動き。ところが、参政権をゲットした後もなくならない性的差別とは何かというところから、60~70年代にリブを画期として第二波が起きました。第二波フェミニズムは、リブを含んだ歴史的名称です。

 主婦連(主婦連合会)、日本母親大会などそれまでの女の運動は、妻・母・主婦という男が女に与えた指定席の役割をよりよく遂行するためのものだったけど、それにノーを突きつけたリブは画期的だった。そして、新左翼の男たちが闘った街頭闘争や銃撃戦といった非日常ではなく、リブは日常を闘いの場にした。そこから男を逃さなかった。子どもの世話を誰がするかは、命がけの闘いなんです。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.24)





1989年、ベストセラーになった「スカートの下の劇場」のサイン会。口紅にソバージュ、スカートという姿は、フェミニストのイメージを変えたくて、あえて「女装」していた=本人提供


女同士、やってみたら面白い


 ――「女の友情」に目ざめたのは、日本女性学研究会に初めて参加した1978年ですか。

 国信潤子さん(のち愛知淑徳大教授)が誘ってくれて、女同士つるむのは気持ち悪いと思いながら行ってみた。

 ――上野さんは「女の中の男」だったんですか。

 いつも男の中の紅一点で、小さいときから男の子としか遊ばないし、女子文化なんか知らない。「女らしさ」と折り合いが悪かった。自分の中にミソジニー(女性嫌悪)があったから。でも20代も後半になると、男友達はそれぞれ結婚して脱(ぬ)けていく。そんなときに研究会に行ってみたら、大人の女たちの集まりで、優しいし、ほどよい距離で遊んでくれるの。

 女同士でスイーツ食べて服買いに行くとか、そういう経験が一切なかった。やってみたら面白い。私には異文化体験で、以来「女遊び」にはまりました。

 ――会ではどんな活動を。

 創設者でワンマンだった理事長に「無血革命」で退陣していただいた。女性学は女性運動から生まれたはずなのに、すごいヒエラルキーがあって、おばさまが君臨し、若手を使いっ走りのように利用してた。ヘンじゃない? 水面下で根回ししてクーデターを起こし、総会で理事長職そのものを廃止した。その仲間が信頼できる生涯の友人になった。いまNPOの理事長をやってますが、そういうタテ型の組織は性に合いません。

 ――「革命」後の研究会はどうなったのですか。

 まずニュースレターを発行した。編集長は経験者と未経験者をペアにして、毎月変える。情報が集まるところが権力を持つから、情報が集中しないシステムにしたの。

 あと、日本で女性学の名を冠した最初の学術ジャーナル「女性学年報」を刊行し、創刊号の編集長を務めた。論文に意見するコメンテーターを、匿名方式ではなく名前を出す方式にスタイルを変えて、次の人に引き渡した。

 専門家と素人でペアを組み、論文の筆者と双方向でやりとりしてもらう。掲げた標語が「素人にわからないことは玄人にもわからない」。他人の論文に責任を持ってコメントすることを通じて、読み手だった人が次の年には書き手に変わって成長する。ずいぶん人材が育ちましたよ。

 ――人材育成は意識的にしていたのですか。

 そう。学生運動の経験からノウハウは持ってたし、権力を特定の人に集中させちゃいけないというのは、骨の髄まで学んでましたから。いつでも誰でもリーダーになれる集団をめざした。

 ――女性学を自分が育てていく決意があったのですか。

 そのころは、自分がジャンルを背負おうなんて思ってませんよ。女性学が飯のタネになるなんて、これっぽっちも考えなかった。ただ女性学で論文を書くとき、社会学では経験したことのない怒りの感情に突き動かされた。誰にも頼まれなくても自分から言いたいことがある、という気分に生まれて初めてなった。

(聞き手・樋口大二)=全11回


(朝日新聞夕刊2015.4.27)


(続く)



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