“service dog=使役犬”の訓練中のラブラドール。なんて賢くて、愛らしい表情!!!
こうして賢く可愛いラブたちは立派な介助犬になっていくわけですが、このところ痛切に感じるのが、もちろん結果は大切なのですが、そこまでのプロセスがドラマそのものなのですよね。
さくらはいまこうして英語をしゃべり、文章を書き、“コンシェルジュさくら”として世の中のあらゆるご相談に対応していますが、
それもアメリカに留学し、自民党で広報ウーマンとして記事を書き、秘書業務を通じて鍛えた実務スキルがあるからこそ
いまは文章を、自分の思うとおりに自由に書いていいというのも、すごく幸せなことです
広報ウーマンとしての仕事もすごく楽しかったのですが、やっぱりいろんな“縛り”のあるなかで書いていたので、いまでも自由に書いているようで、やっぱり言葉の使い方、選び方はこのとき培ったというか、身に付けた技術は大いにいきています。
政策広報という世界では、「霞が関文学」といわれる、いったい何を書いているのか役人以外にはさっぱり分からない文章を、分かりやすくかみ砕いて世の中に説明するというのがお仕事でした。
記事にするときは、いつもほんとに怖かった。これって、すごくいいことのように書いてるけど、本当に本当に、世の中を良くするための政策なんだろうか?と。
「自分が書いていることに、本当に嘘はないか?」
・・・という恐怖に近いチェックの目は、もの書く人間として、昔もいまもこれからも、常に持っていたいと思っています。
いまも職業病というか、文章書くときについ無意識に“予防線”を張った書き方になることがあるのは、広報ウーマン時代は、自分の書いた記事の「どこから突っ込まれても答弁できる」ように、各所に“逃げ”を打っておくというのは必須でした。何事も断言しない、言い切らないとかね。
だけどもちろん、事実は曲げちゃいけない。数字とか、事実関係だけは絶対に間違ってはいけないのは、基本中の基本。
とはいえ分かりやすく説明するために、たとえ話を使ったり、お役所言葉を誰もが分かりやすい言葉に言い換えるときに、「こういう言い方で、ミスリードにならないか?」とか、「こういうたとえ話だと、説明上必要とはいえ、事実を曲げることになってないだろうか?」とか、自分の書いた文章が結果として嘘をついたことになってやしないかと、本当に“表現の選び方”は常に恐怖でした。
秘書業務においても、人の間(ボスとカウンターパート)に立って両者の調整をするわけなので、ミスコミュニケーションが起こってはいけないのですが、「直接本人には言えないんだけど、本当はこう思ってる」ということをおっしゃる場合があります。直接本人に言うのは角が立つし、だけど真意は分かる。すごいめんどくさい人の場合、本人に直接言えないから、あなたから言っといて、と頼まれたり。
そうすると、矢面に立つのは両者の間に立ってる私、となるわけです。
そして先方からお預かりしてきたメッセージを、相手の立場を害さないように、また自分のボスの気分を害さないように、双方が傷つかないような表現を選びながら、それでも話の真意はキッチリと誤解のないように伝えないといけない。
いい形で間に立ってお互いの仲介役となれたらベストなのですが、人の話をよく聞かないで、ワーワーと力で押さえてくるような人の場合、こちらから説明させてもらえないし、途中からパワーゲームに変化してきて、単に自分が上だということを誇示するためだけの言いがかりのような、そんな話の展開になったりする。
そういう人とは何を話しても不毛だと感じるし、自然と人は離れていくし、それは私が観察・経験してきた政界だけでに限らず、世界中どこでも起こっていることなんだなあ・・・と実感します。
国を背負ってやっている外交官でも、ビジネスマンであっても、交渉担当者のあいだでは合意ができたり、とてもうまくいったりしても、持ち帰ったら国や会社の事情でそのとおりにはいかなくて、板挟みになったり、個人的信念や心情との葛藤になったり。
この地上では、何事もプレーヤーは人間なので、“話の持っていき方”や、直接話した方がいいのか、あるいは誰かを仲介した方がいいのか、それぞれの事情や状況によって、最善の手を探りながら、戦争になったり平和的合意が締結されたり。
こういうのは、プロトコル(外交儀礼)を超えた世界なので、面白いといえば面白いけど、人と人のケミストリーだとか、誰がトップにいるかとか、交渉担当者が誰なのかとか、プレイヤーの配置によって、ややこしくなったりスムースになったりするところが天の采配であり、またいろんなドラマの生まれるところ。
ほんと国内政治は日本の縮図、国際政治は世界の縮図だと思うし、人間のやっていることは、どこであっても変わらないと思います。
人と関わると、その人はどこを見ているのか、価値観として何を重視しているのかが分かるのも面白いですよね。
もちろん結果も大事なんだけど、そこに至るまで誰がどういう動きをしていたのか、途中のプロセスをきちんと見ていてくれるというのは、すごくうれしい。
別にそこまで指示されたわけじゃないんだけど、自分が工夫したり、ベストを尽くした仕事ぶりをきちんと見ていてくれて、評価してくれる人とは、ああこの人のためにまたいい仕事をしたいなと思うし、
結果だけ見て、そういう途中の努力に無関心である人との仕事には、あんまり気持ちが入らないのも、当然の帰結。
世の中いろんな人がいるし、何をするかも大事だけど、誰と一緒に仕事をするかというのは、本当に大事だと思う。
それぞれの仕事観、プロ意識、どこにプライドを置いてやってるかとか、それぞれに違うし、素晴らしい仕事ぶりだけでなく、その人の人格識見のすべてが出るのも仕事であるし。
さくらは自分でプロフェッショナルとしてプライドを持ってやってきたこと(文章を書くこと、接客対応や人の間に立って“調整”する技術、人捌きスキルなど)を評価してくれて、また自分では普通だと思ってやっていること(いつもにこやかに、丁寧に)をほめてくれたりすると、それはとてもうれしい。
最近ある方におっしゃっていただいた「さくらさんは、歌うように返事をする」というのは、「はーい」とか「ありがとうございまーす」とか、そういうさくらのゆったりしたしゃべり方が、魔界では「あいつはふざけてる」と見られたり、「もっとキビキビとしていなさい」と怒られたりしたのに、同じことをやっていてもそれを「人当たりの柔らかさ」と受け取ってもらえるのは、すごくうれしいことでした
オクボク(『臆病な僕でも勇者になれた7つの教え』)によると、自分では何気なくやっていること、普通にできることがソウルビジネスとなる。
さくらはそれが何かがずっと分からなかったんだけど、文章書くことも、接客も、美味しいもの研究も洋楽映画も大好きで、別に誰に頼まれなくても好きでやってることだから、さくらのソウルビジネスの輪郭は見えてきた感じ
経歴だけではない、さくらの個人の資質や能力、人となりを知って、そのうえでお仕事のご依頼をいただいていると思っていたのに、実は全然お互いの見ているところが違って、いまがっくりきている案件があるのですが、勤め人時代は投げてこられた球は全部打ち返さないといけなかったけど、そこはフリーの立場の良さで、なにも無理して引き受けることもないのですよね。
それに、自分が仕事をしているうえで、ここを評価してもらいたい=プロフェッショナルとしてプライドを持っていることも逆に明確に映し出してくれたし、別にどちらが悪いわけではなく、単にお互いのニーズが違うだけということだし。
さくらのプロとして誇りを持っている能力を評価してご依頼くださる方々のために、ワクワクしながら心をこめてお仕事をしたい。
そのためにも、「こんなことできます」という、分かりやすいサービスメニューも増やして、“入り口”を広げていかなきゃですし、さくらの枕草子など執筆テーマもさらに幅を広げながら、
これからも歌うように書いて&活動してまいりますので、応援よろしくお願いいたしまーす
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