『明けましておめでとうございます』をそろそろ聞かなくなる、1月13日。

     類をみない暖かめな大晦日をすごした。
今年は暖冬のようだ。気候の変化は年々顕著である。

 最近ネットニュースを見ていると、ドナルドキーンさんの命日、2月24日を犬黄忌とする、というニュースを見かけた。

  ドナルドキーンさんは、昨年逝去された。
名前だけはその時も知っていた私は、失礼ながらそれがきっかけで、彼の執筆したエッセイの文庫を初めて読んだのだった。

  ドナルドキーンさん。
日本研究家。日本文学を研究することを目的と渡日している。

 本の中には、世界大戦前の欧米では日本の研究
日本語の研究はあまり熱心なものではなかった、と書いてあった。
 世界的に見て、日本が研究対象として、重要視されていなかったとのこと。
  
 日本の中で日本のことを知ることはできるが、置き換えると、わたしや日本人はガーナという国を知っていたとしても、使われる言語、どんな言い伝えがあるのか、伝承されている儀式や風習は何か?

  私はすぐに答えることはできない。
要するに、日本も大戦前は他国、特に、欧州、米国、ソ連(現ロシア)からみて感じだったということである。

  中国文化を理解する延長に日本文化があったり若き日のドナルドキーンさんが日本の勉強を専門でしたいと思っても、その専門が居ない、など現実的問題によりかなり苦労したそうだ。

  イメージが一人歩きして全く違う、日本像がつくられたりなんてことはよくある。

  知ろうとすることは、まず自分が知らないということを自覚し、初めてはじまる。

  世の中には知らぬことが本来は多い。それを、知りたいと手を伸ばし、ときには穴に潜り込み、突き進み、森を歩くことができる人は多くはない。

  知識の果実は必ずしも近くにあるものではない。

ぼんやりと、ドナルドキーンさんの知識の果実はいかほど彼を満たしたのかしら?とおもった。

  ニュースにて、ドナルドキーンさんのご家族が遺品の整理の中たくさんの彼の未発表の執筆があったこと、また東京都北区の図書館にはドナルドキーンさんが本に親しみやすいようにと作られたスペースがあるということ。
  
  このようなことを知り、私はもっと彼のみた、日本を知りたいとおもった。

   私は日本が好きだしこの国に生まれたことを嬉しくおもっている。この気持ちの根拠は多分、深い深いものなのだ。

   知ること。それは生きている間は続く。

この間まで、リヒテンシュタイン公国の存在も知らなかった。知らぬことは、刺激である。知りたくなるから。