2019年12月。
年の瀬。平成が終わってから初の年越しを迎えようとしている。
とはいえまだ師走の頭。と、思っているとあっという間に大晦日になるのだろう。

  今年はわたしの父方の実家の人々と話すことや、そのことで知らなかった我が家の歴史の話がポロポロと聞けた一年だった。

  今回、ここに書き記すのは、昔々、わたしの父と母、その長女(私)と、祖父母、叔母の6人で旅行に出掛けた話である。
   

  時は昭和も終わり頃。私はおそらく幼稚園児であった。弟妹が私にはいるのだが、まだ生まれていない。

  かれこれ30年以上は昔の話。

  祖父が定年退職をした。それを期に旭川に新築の家を建て、わたしの父一家と二世帯住宅にする。というイベントが終わった後くらいである。

  なぜか、教員免許取り立ての叔母も同居することとなり、一階は父一家。  二階は祖父一家(叔母含む)という暮らしをしていた。
  
  台所も各階にあったため、普段の食事は全く別であった。二階の祖母の煮つけたカボチャと、一階の母が作ったカレーライスを同じ日に食す、など幼稚園児の私の楽しみであった。

  祖父が教員というのはとんでもないパワーがあり、幼稚園の園長先生からは、おじいさまから話は聞いていますよ、と、謎の挨拶をされ、頭に『?』が浮かぶのだが、おじいちゃんはお話が好きだから誰とでも仲良くなれるんだ!という解釈をしていた。

  そんなこんなで迎えた春。詳しく覚えていないのだが、総出で旭川から、函館、から青森、金沢の旅行をした……らしい……私の記憶は、函館のイカ天ぷらの入った蕎麦がやたら美味しかったことくらいだ……が……

     今年、一つの事実が明らかに!
祖母が昔話をしていた(彼女は来年90を迎える)
『おまえと、お前の父さんと母さんと、旅行に行ったべ、あれは苦労をかけたなぁ、じいさんが飛行機は嫌だと怖がったから船を手配してもらったんだ。』

  『!?そ、そうだったの?』

当時格安の飛行機など存在しなかった。あるのはjrと船。そして、全日空の飛行機だったろうか…

    てっきり飛行機はとっても高いから、函館から船に乗ったと私は思っていた。今年迄。
  しかし、実はおじいさんが空を飛ぶ鉄の塊が怖かった、乗りたくない!とごねたらしい。

  父はそういう手配の手際が良い人だったため、陸路、船で回った旅が可能だったようだ。

  叔母が笑うのだった
『じいさんは、車の免許も取ったけど定年したらすぐ返納した。機械が怖いのだよね、あのひとは。』


   ある意味潔い。自信がない機械や怖い乗り物はなるべく乗らない、そんなじいさんだったのだ。

    ただ、飛行機が怖いなんて意外なことを言っていたのだなとぼんやり思った。
おじいちゃんが怖いのは、おばあちゃんが家を留守にすること以外ないと思っていたからだ。(祖母が入院した際本当に、祖父は心許なそうに、いつ婆さんは帰ってくるんだと聞いていたから。)
   案外可愛いおじいさんだったようだ。
   昔話、私は好きだ。
祖父が存命だったら今年は多分、毛筆で、『令和』と記し、神棚に飾っていたんだろうな…

            おじいちゃんのいない冬は、味気ない。

昭和30年代か?祖父、祖母、叔母。
教員勤務地の士別か名寄か?での写真だそうだ。
    若いね!