様々なニュースを見る。
  ハラスメント、いじめ……
そんな言葉が溢れかえっている。

気分が悪くて仕方がない。
ハラスメント、いじめ、にではない。

ハラスメント、いじめ、その線引きが曖昧なのにも関わらず、あたかも被害者だと言う、ただの都合主義な人に。

本当にハラスメントや、いじめになやみ、くるしむひとがたくさんいる。

ただ、上司がすこし強く言葉を発したらパワハラ
(常態化していないのに)
列車で横並びの男性がすこし、女性をみたらセクハラ
(性的意思があるかどうかの確認もないのに)

声が大きいだけであたかも多数の声だと人は錯覚するらしい。

インターネットニュースのコメント欄にある、過激な思想やヘイトスピーチのような差別的コメントは多くなったように見えるが、実際は発信力、発信の熱量のたかい一桁%ほどのユーザーが熱心に繰り広げているのが実情だと、最近、データが出ていた。

 自分が嫌だと感じるものを耐えろとは言わない。
でも自分が嫌だと思うことをパワハラだのセクハラだの言う前に、相手に伝えることが大事だと思う。

  アンチ、批判的な意見。
これはに極端に反応する人々。自分は批判されたくない人々。

内容の良し悪しにかかわらず、ほめられるとでもいうのだろうか。
内容がひどいものなら批判されることもあるだろう。

それらを、人々は意見と言い、そこから人々は研鑽するのだ。より良いものを、考えを、生むために。


全人口が、満足する映画や音楽はあるのだろうか?

映画ならば、見る視点、俳優さんが好きだから見たのか、映像美なのか、ストーリーなのか。
様々な視点が各々にある。
俳優さんをもっとうまくこんなふうに…
と思う人がいたり、
あの俳優さんがいた景色の映像が美しかったと思う人がいたりする。
ストーリーは良かったけど、映像も演技もイマイチかもと思う人もいる。

モノの魅力を感じる部分はみんな違うのだ、当然、すべての人が絶対満足しかない作品など生み出せないと、私は思う。

そういう、当たり前の個体差や、当たり前の、ここがもの足りないと感じる心。

それすら、批判されるのだろうか?

何故、皆同じ感情であろうとするのだろう?

私は批判がない社会の成れの果ては
ナチスドイツの暴走と同じだと思っている。

様々な意見があって、それを言い合えることこそ健全なのだ。

ハラスメント、いじめ。
深刻な被害者がいる。命を経つほどの方も。

その反面、すこしの気に入らないことでパラはら
だのセクハラだの浅い理由で言葉を発する人がいる。

浅い理由で、多用する人が存在してしまうと深刻なものが見逃されてしまう。

それでいいのか?

私はそうは、思えない。

人は打たれ弱くなった。

ここ最近の社会、そう見えて仕方ない。

人の心に正しい判断を培うのに必要なのは、人の心をそれぞれ理解しようとする心と教養だと思う。

自分は正しく判断したり、人を理解しようとできているのか?自問自答してほしい。



綺麗なジャイアンだっている。