友人が呟いていたので認めてみたいという試み。

「読書と音楽の素晴らしさはなんとなく体感でわかっているつもりなの。だけど言語化したらどんな感じかしらね。」


恐らく友人は、それを言語化しないだろう。したとて私の目に入らないだろう。

かと言って、私が代わりに言語化するなんてのは不可能。言語化においても「誰かの代わり」なんて務まらないだろうからね。

誰かの呟きを借りるにあたって認めておくべきだと思った事があって、それは「私は誰の善し悪しも狙っちゃいない」という事。

「狙いたい」のかもしれないが「狙える」なんて言いきれないし「狙うか否か」なんて話はさておき、私は認める迄だろう。

私が面白いと、私が素晴らしいと、私が思う様々な感情をただ興味の向くままありのままに、この身ひとつに認める。

それは今回に限った話では無く、私の認めるアメブロにおけるスタンスとして私らしさとして。

友人に気を遣った訳では無い、ただ気が付いたから認めた迄だ。


私は、音楽は好きだけれど読書はどちらかと言えば好きくらいだろう。どちらも素晴らしいと感じる故、手を挙げたことに間違いは無いが的外れな解答には少々自信がありましてね。さておき。

読書の素晴らしさから言語化してみようか。

読書とは一概に言えどジャンルによって異なる素晴らしさがあって、パッと思い当たる節としては「誰かの思考を垣間見れる」ってのがある。

これは自己啓発だとか哲学、エッセイなんかがそうだと思う。

それを認めるにあたって様々な人が尽力し、山のようにあるうちのどんな一冊だってそう易々とそこに存在している訳では無くて、それでいて容易に知り得る事ができてしまう。

本を読むのが苦手だった私にしてみれば効率的に思考を垣間見る事が許されている本って素晴らしいなんて思えた。

そして音楽にも通ずるだろうが「どんなに遠い人だろうと触れる事が許されている」という節を感じられる。

本にしろ音楽にしろ、広める価値を認められた故に存在しているのだろう。そうでない存在もあるだろうけれど、私みたいなバカで社会的に底辺の人間であろうと賢い精神科医の思考にだって触れる事ができる。

確かに難解ではあれど、ただ生きているだけでは知りもしない事が知れる。関われ無い様に感じられる人間と一部、関わる事が許される。

読書と音楽って似てる部分があるんだろうね、読書と言うより小説かな?


音楽の素晴らしさを言語化してみようか。

音の影響として「感性を刺激する」なんて節が挙げられると思う。それは音だけではなくて文字にも感じられるもので、喜怒哀楽を良くも悪くも感じる事ができるのではなかろうか。

音楽においては歌詞、音程、旋律、リズムの全てが我々の感性に様々な刺激をもたらす。

それらは頭で考えるよりも率直に感性に分からせる素晴らしさであって、良い悪いだとか好き嫌いだとかを織り成させる。

圧倒的に言語化するには足りない感じがするだろう。「好きだけど微妙」「嫌いだけど良い」なんて表現がせいぜい、足りないからこそ「最低」なんて皮肉をも用いるのだろう。

その点文字の、小説の素晴らしさはわかりやすいと思える。音楽でも「この歌詞が好き」なんて人も居るけれど、私にはその感覚が薄い。

けれど確かに、自分にとって的を得てるだとか自分を肯定するに足る言葉に人は「好き」を覚えるのではなかろうか。

私は小説にゲームと近しいものを感じていて「その世界観に没頭できる」「現実逃避できる」のが素晴らしさとも捉えられる。だが小説なら過程が、ゲームならば結果が重視される。


それらは全て、私たちに「心地良さ」をもたらしてくれるのではなかろうか。

現実を上手に生きられなくとも完成された音楽や小説といった作品の視野角で見れば、その時は心地良くてそんな瞬間に「素晴らしい」を想うのだろう。

感性をおざなりに生きるのは誰しも許容し難いもので、常日頃から感性を大事にしていたって視野が広がれば広がるほど不安定になる。

その視野角を狭めてくれる、狭める事も許容される娯楽、暇つぶしとしてこれらは「素晴らしい」のではなかろうか。

言語化してみたけれど自信ねぇな〜、なんて思いは拭えないけれど今の私で認められるを認める迄。

悲観してもいい事は無い。良く捉えようか。