「俺に、お前より好きなヤツができるとは思えねーがな。」
なんてたちの悪い冗談だろうと思った。
冗談よねと念のため尋ねれば、更にたちの悪いことに圭吾は否定する。
憐れまれたのだと思った。
そういう言葉を与えておけばいい、安い人間に見られた気がした。
その瞬間、必死で平静を保とうと努めていた頭に、一気に血が昇る。
「なんなのよ、アンタ。タチ悪い事言わないでよね。」
「……なにが。」
「──じゃなきゃ、馬鹿にしてんの!?」
突然激昂した沙耶に、今度は圭吾のほうが目を丸くして驚いている。
だが、止まらなかった。
こっちがどんな想いでけじめをつけようとしたと思っているのだ。
いつまでも圭吾が自分の側にいるからこんなに悩む羽目になったというのに。
最後の最後まで、この男はいいように掻き乱してくれる。
圭吾の執着は、たとえ偽りと知っていても沙耶にはひどく心地よいものだった。
必要とされることに喜びさえ感じた。
執着を心地よく思うと同時に、それらすべてを受け止めてもなお足りないと思う。
そんな自分の貪欲さをも思い知らされた。
水を与えられてから初めて、自分がどれだけ渇いていたかを実感する。
沙耶は、ただ自分が、圭吾を肯定する存在であればいいのだと思っていた。
ちゃんと自分の居場所があるのだと、
心配する人だってちゃんと居るのだと。
そう分からせてあげたかっただけなのに・・・
なのに、まさかこんなことになるだなんて思わなかった。
気づいた時にはもう捕まってしまっていたのだ。
どうしようもなかった。
沙耶が圭吾の仮初めの居場所だったはずなのに、いつのまにか圭吾の傍らこそが沙耶の居場所になってしまっていたのだ。
まるで詐欺みたいだ。
圭吾の側がこんなに心地よいだなんて。
所詮、自分に出来る事なと何もありはしなかったのだと痛感した。
欲しがってばかりいる自分が、誰かに何かを与えるなど、最初から無理な話だったのだ。
このままでは、そう遠くない未来、とんでもない醜態をさらすに違いないと
きっと最高に格好悪く、みっともない姿であがくことになる。
そうとわかっていて拒まなかったのは自分なのに、手を伸ばしてきたのは圭吾のほうではないかと、責め、なじり、醜くののしってしまいそうだった。
沙耶にだって矜持はある。
そんなことは堪えられない。
せめて圭吾に軽蔑はされたくなかった。
……それなのに。
「っ、圭吾が! ずっといるから。私といつまでもこういうことしるから、だから妙な期待しちゃうんじゃない!」
駄目だ、やめなきゃ!!と、思うのに、止められない。止まらない。
「なのに私から言い出したらあっさり割り切るし! だったら、さっさとアンタから言えば良かったのよ。もう平気だったんなら、もっと…ッ、」
もっと早くに突き放してくれれば良かったのに。
沙耶には圭吾の心情などよくわからない。
わからないことを理由に、死ぬほど悩んで今まで先延ばしにしていた自分がまるきり馬鹿みたいではないか。
そもそも雰囲気を読むだとか隠された本音を探るだとかは、苦手な性分なのだ。
だから、
「もう終わりにしよーとか考えてたんなら、もっとわかりやすく態度に出したらいいじゃないの!バカ!! そういうの私、よくわかんないのよ!……そしたら私だってこんなに好きにならずに済んだのに!」
激情そのままに叩き付ければ、
沙耶の言い分に、圭吾は今まで見たことのないような奇妙な表情で固まっていた。
その顔を目にし、急激に頭の芯が冷えてゆく。
「あー、もう……。私ってばホント馬鹿。」
情けなくて涙が出そうだった。決定的に呆れられた。
今更、遅いだろうなと思ったけれど、
「今の、ナシね。ごめん。」
そう言って、服を急いでかき合わせ、体裁だけ取り繕ってから立ち上がる。
室内にはまだ熱気がこもっていたが、そこはすでに沙耶にとって冷たく、よそよそしい場所でしかなかった。
さっさと帰ろう。帰って鉢植えに水をやって服を洗濯して、それから、
「………も、いっかい言えよ。」
離してよ、と言うつもりだった。
抱きすくめられた。
腕を。
力ずくでふりほどけばいいとも思った。
なのに、やっぱりこんなふうにすがられると抵抗を忘れてしまう。
拒絶したら圭吾が遠くへ行ってしまうかもしれない、そう自身に言い聞かせ続けてきたここ数年の思いが、沙耶の自由を奪っていた。
──違う。本当は、捕まることを望む心を沙耶は知っている。
圭吾の本心がどこにあっても、そうしてほしいと願う浅ましい自分がいる。
救いようがない、正真正銘の大馬鹿女に成り下がっている自分がいる。
背後から巻き付いた腕が、ぎゅうぎゅうと締め付けてくる。
拘束の強さが、言わなきゃ絞め殺すと脅しているようにもとれた。
「何を。圭吾さんはモテモテですヨー、ってこと? ああ、それともバカのほう? こっちなら何度でも言ってあげるわよ。バカバカバカ。」
「てめ、三回も言いやがったな。この……………、や、そうじゃないだろ!そうじゃなくて、お前が俺を──、」
「うるさい。耳元で怒鳴らないでよ。…わかんないわよ。聞いてどうすんの。」
圭吾に沙耶を捕まえる意思がある限り、自分はきっと逃げきれはしないのだろう。でもこれ以上惨めになるのも嫌だった。
嫌なのに。
「──俺が、好き?」
「…ッああもう、好きですよ!惚れてます!悪い?!」
冷めた顔して実は熱くて、無口なくせに嫌味ったらしくて、淡泊そうに見えて本当はしつこくて、極めつけに親友の彼氏ときた。だけども好きなのだ。どうしようもない。
酷く何かから外れているとも思う。
裏切っている気さえする。
だけど止められないのだ。仕方ない。
止められないなら、届かない所まで逃げればいい。離れれば・・・離れればきっと・・・・
「う、わ!」
ぐるりと唐突に視界が回転し、離れたばかりのセミダブルの寝台に逆戻りしていた。
「悪くは、ない。 つーか最高?」
圭吾にしては浮かれた口振りなのに、しかし沙耶を覗き込むのは恐ろしいほど真剣な眼差しだった。本気で絞め殺されるのかと思ったくらいに。
「圭吾?」
「お前もたいがい鈍いよな。俺も、あんまり人のこと言えねぇけど。」
「何言ってんの、わかんないんですけど?」
「俺は一度で信じたぞ。今更ウソだっつっても受け付けねーがな。」
会話が微妙に噛み合っていない。
「ハッキリ言ってよ!私、そういうの苦手だって言ったでしょ。」
「……みたいだな。お前のそれ、国宝級。」
言いながら圭吾は、せっかく着込んだ沙耶の上着を器用に剥いでいってしまう。
「え、ちょっ、やめ! こんな時に、そんな気にはなれないわよ!」
「ひとを発情期のオスみたいに言うな。しねーよ。…したいけど。夜勤明けで疲れてるんだろ。」
さっき自分で言ったこと忘れたのか、と訝しげに言うものだから沙耶は唖然とした。
改めて相手の顔を見れば、真剣な目はそのままで、ただ雰囲気がずいぶんやわらかいのに、その言葉に嘘はないとわかる。
圭吾は沙耶の上半身のみをさっさと脱がせると、それで満足したように傍らに潜り込む。
途方にくれる沙耶に、お前これ好きだろ、とタオル地のカバーに包まれた枕を頭の下に押し込むと、そのまま枕ごと抱えるみたいに引き寄せる。
何が何だかわからぬうちに、沙耶はすっかり就寝の体勢にされていた。
確かに、今日はもうやらないと言ったことは憶えている。だが同時に帰るとも言ったはずだ。それ以前に、一応自分たちは別れ話をしていたのではなかったか。
沙耶は圭吾を好きだと言ったのに、他人からのそういう特別な執着やら気持ちやらを、圭吾は重たいと感じていないのだろうか。
一時的に関係を持ったに過ぎないだろう沙耶からのそれらを、彼がどう捉えているのかがわからない。
「そのカッコだと帰れないだろ。」
「……うん。」
「帰らなくていい。帰るな。」
「だから、これじゃ帰れないわよ。それにちょっと腕緩めて、苦しい。アンタわけわかんないし。」
「……さっきのあれは失敗したようなもんだから、本番は明日な。いま言うとやりたくなるから。」
「本番? なんの?」
「告白。」
「こく……、」
沙耶が圭吾の言葉を頭の中でこまかくかみ砕いて租借し、理解に達する頃には、勝手に沙耶を抱きしめたまま眠った男は、何やらひどく安心した顔を晒していた。
不覚にも、沙耶は少しだけ泣いてしまった。
流れた塩辛い水は頬をつたって枕に染み込み、表面を湿らせる。
この男の側が沙耶にとって居心地が良かったのは、まったく当然のことであったのだと気付く。
好きでいてもらえたから。気持ちをもらっていたから。
思えば、タオル地の肌触りが好きだと何気なく言ったその翌週には、この枕に真新しいカバーが掛けてあったりした。
──国宝級が否定できなくなってしまい、困る沙耶だ。
「……私も、さっきの最低だったからやり直しだな・・・。」
本物にするのは明日から。
ならば今夜一晩だけは、ここを互いの仮寝としてまどろもう。
*** 終わり ***