このブログを、「神との対話 批判」というキーワードで訪れる方があまりにも多く、驚いています。
ですので、彼らのために加筆を加えようと思います。

まず、批判については、聖書に勝る書物はない、したがって聖書と抵触する部分はみな真実ではないということを書きました。
PCからご覧になっている人は、右側のバーにランキングがあってそこの一位にあるであろう記事がそれです。

それでは加筆します。

というかそもそも疑問なのが、なぜこの本がそんなに特別なのでしょうか。
神と会話した、と主張する著者の書いた作品はごまんとあります。ほんとです。いっぱいあります。ほんとなんです。
そして、ニール氏は、その中のひとりでしかありません。
それでは、なぜ彼の書いた作品だけが特別なのでしょうか。

作品内容に虚偽が含まれる可能性についてみてみます。
これは前の記事でも書きましたが。
まず、ニール氏の作品で、彼は虚偽の内容を表現することはできますか?
できますよね。論理の一見つながったような話を作ればいいのです。これはあくまで、可能性としてです。
それでは、彼にその内容虚偽の作品を作る動機がありますか?
ありますよね。彼は印税を取得し、また小旅行イベントを企画しているので(HPより)その代金、知名度、などを得ていますから。まるで新たな宗教を作り出そうとしているかのようにも見えますね。

それでは、聖書はどうでしょうか。
虚偽の内容を表現することはできますか?
できません。数千年の間に生きた50数人の記者達の作り話が偶然一致するのは天文学的確率(神がいないと仮定して、確率論を持ち出すなら)になり、一応表現としてできるということもできますが。
それでは、彼らにその動機がありますか?
聖書を書いた記者はほとんどが殺害されて、中には+拷問にもあっています。
聖書はもっぱら神に栄光を帰すよう書かれてあり、人間にメリットはありません。教会が利益を受けるとすれば十分の一献金ですが、彼らは前述のとおり殺害されています。殺害の危険を知りながら書いたのです。

もし、現代で、例えばキリスト教関係の言論統制がなされており、違反者は謎の施設に強制収容され拷問されるとします。
あなたは印税が入るからといって、キリスト教関係の本を出版しますか?
ここでわかるのは、お金と身体的自由は釣り合わないことがわかるでしょう。
それでも出版したとしたら?
それはお金以外の目的があるのです。
すなわち、それは、神の御心であったから、です。

彼らは神様、イエスキリストを愛していました。
そして、イエスキリストは人類皆愛しているので、それぞれが自分の罪を悔い改め、自分の元にたちかえって欲しいと切に願われています。
それなので、彼らはイエスキリストが望んだ、他の人々に彼の元に立ち返るよう書物を書いたのです。
これが聖書の真実です。
おとぎ話ではないのです。

いや、それは考え過ぎだろうと思った方は、私は悲しいですが仕方ありません。
ただ、これだけは覚えていて下さい。
ある時点で、もう手遅れになる時が来ます。
その時までは、まだチャンスがあるということです。

、、、少々、長々と書きすぎました。熱くなってしまいました。反省しました。

それと、神と対話したと主張する作品について。
中には聖書との整合性がよくわからないものもあります。
なぜなら、聖書の言っていることが抽象的である場合があるからです。

しかし、「神との対話」についてはどうでしょう。
ただの「人」を「神」と扱っている時点で、完全に聖書に反しています。
他にも、実は罪なんかないと主張しているところとか、イエスキリストをただの教師としているところとか、、挙げたらきりがないです。

まあ、正直言ってクリスチャンの方はこの本を読んでも成長できないどころか有害であり、時間の無駄でもあります。
どうせなら、ジョン・オーウェン、ジョナサン・エドワーズ、ジョン・バンヤン(John Bunyan)などをおすすめします。

神様の祝福が皆にありますように。