蛍光灯が切れかかっている。テレビは一面の砂嵐だ。大量の黒い粒が冬眠
している虫の群れかなにかのようにざらざら流れていく。後ろではボブ・ディラン
が小さく歌っている。How many roads must a man walk down? ジジ、ジジジ
と蛍光灯が点滅するリズムに合わせて視界も点滅する。僕は膝を抱えたまま
テレビを眺めている。青白い光が四角く床に落ちている。ジジ、ジジジとその四角
も揺れる。突然蛍光灯がぶつん、と消えた。ジジ、ジジジのリズムにすっかり慣れ
ていた僕はまだ視界が点滅しているような気がしている。外は暗い。風の音がご
うごうと夜の底を走っていく。もうすぐ夜が明ける。電球を替えるのは明るくなって
からにしよう、と結論してテレビに視線を戻した。そこにはいつの間にか古い白黒
映画のような見慣れない映像が映っている。男と女が言い争っているようだ。壁
の時計は2時を指している。こんな時間に映画なんてやっているんだったっけ。
テレビの中では逃げ出そうとする女に男が何かを訴えかけている。男の口がゆっくり
動く。きょねん、まりえんばーとで。その言葉が終わると同時に画面はまた砂嵐に戻る。
そして下手な点描画みたいな黒い粒々の中からそいつが現れた。

I'm afraid.    一応人のような形はしている。でもずいぶんデフォルトが雑だ。そうだな、あれだ、ジンジャークッキーみたいだ。全身が砂嵐でできているみたいに真っ黒で、小さい粒がざらざら動き続けている。しかし夢には深層心理が影響しているというけれどずいぶんひどい深層心理だ。意識まで砂嵐に支配されているなんて。「深層心理なんてものを信じすぎると足元を掬われるぞ」そいつが突然口を開いた。文字通り人の口に当たる部分に切れ目ができたのだ。「深層もなにもあったものか。お前が思っているほどお前の心理は深くないんだ。そもそも自分でも分からないような心理なんてあってもなくても同じじゃないか」ずいぶんとよく喋る深層心理だ。そいつが喋るたびに口らしい部分の周りの黒い粒がざらざら流れ落ちる。こぼれた粒は床に吸い込まれるように消えていく。後ろではあいかわらずボブ・ディランが歌い続けている。 The answer, my friend, is blowin in the wind. 「答えは風の中にしかない」そいつが歌うようにつぶやいた。「風の中、風の中、風の中だ。風の中っていうのは分からないっていうことなのか?どうしようもないっていうことなのか?なあ、お前はどう思うんだ」そんなことを突然聞かれたって僕にはそんなことはわからない。ボブ・ディランだってきっと僕になんて理解してほしくないだろう。誰にも誰かを理解することなんてできない。できるのは理解したようなつもりになることだけだ。多分。「そうやってお前は逃げてばかりいるんだ。理解したつもりになることすらしない。少しは努力をしたらどうなんだ」深層心理が見透かしたように言う。うるさい。僕はリモコンをそいつに向かって投げつける。リモコンは黒いざらざらの中に吸い込まれて消えてしまった。理解なんていらない。ただそこにあるものをそのまま受け入れればいい。僕らは理解りあえない。でも認めあえる。って昔どこかで誰かが歌っていたような気がする。「誰もお前を理解なんてしてくれない。それに僕はお前を受け入れることもしない。だからさっさとあきらめなよ」僕はそいつに言ってやった。そいつはニヤッと笑ってぱっと消えうせた。そいつが立っていた所には僕が投げつけたリモコンがぽつんと落ちていた。   Do I live?

蛍光灯が切れかかっている。テレビは一面の砂嵐だ。大量の黒い粒が何かの果物の種かなにかのようにざらざら流れていく。ジジ、ジジジのリズムに合わせて視界が点滅する。後ろではボブ・ディランが小さく歌っている。僕はステレオの電源を切った。ボブ・ディランは歌うのをやめてしまった。テレビでは相変わらず砂嵐が流れ続けている。風の音がごうごうと夜の底を走っていく。夜は、まだ明けない。

             The answer, my friend, is blowin in the wind.

※ボブ・ディラン「風に吹かれて」   アラン・レネ「去年マリエンバートで」


 「ホテル・カリフォルニアへようこそ!」ボーイは言った。「当ホテルはあなたに素晴らしい時間を提供することができるでしょう。広く豪奢な部屋、窓からの美しい眺め、整った設備。わたくしどもは当ホテルのサービスに絶対の自信を持っております」僕はボーイの喉元をじっと見つめている。シミひとつない真っ白のシャツに、正三角形に結ばれたネクタイの結び目。きっちり糊付けされた襟の中で、のどぼとけが不規則に上下している。ボーイはバスルームのお湯の出具合についてしきりに何か説明しているが、僕は半分も聞いていない。説明を終えると、彼はルームキーを差し出した。「お客様のお部屋は5階の508号室になります。何か不具合がありましたらフロントに――」唐突に言葉を切る。キーに落としていた視線を上げた。目が合うと同時に彼はまた喋り始めた。「猫がね、鳴くんですよ。発情期の猫の声っていうのはすごいものでして。まるで絞め殺されるみたいな声を出すんです。あなたは聞いたことがありませんか?猫の声。あの断末魔のような声。猫の鳴き声がするんです」突然世間話をするような口調でそう言ったかと思うと、何事もなかったかのようにまた慇懃な口調に戻ってこう続ける。「何か不具合がありましたらフロントにお電話ください。それでは、ごゆっくりどうぞ」僕は彼の差し出すキーを受け取って、奥のエレベーターに向かった。

 

 中庭では数人の少年たちが踊っている。彼女は煙草を吸いながらそれを眺めている。少年たちは彼女のそばを通り過ぎるたび微笑みかけるが、彼女は一緒に踊ろうとはしない。煙草の灰がぱらぱらと足元に落ちる。それを追うようにして吸い終えた煙草がぽとりと落ちた。「あんた、どうしてここに来たの?」部屋が見つからないんだ、僕は答える。彼女はゆるゆると首を左右に振る。「そういうことじゃないわよ。どうしてこのホテルに来たのかっていうこと」意味を図りかねて答えずにいると、彼女は眉根をぎゅっと寄せた。「あんた、もしかしてどうしてここに来たのか、わかってないの?」あたしたちはここから出られない。ここに閉じ込められているんだよ」そんなはずはない、僕は言うが、彼女はもう何も言わない。少年たちは汗を振りまきながら踊り続けている。

 

 その夜警はぶかぶかの青いシャツを着ていた。お腹の部分だけがきれいにぴったりとはりついている。腰につけている大量の鍵がじゃらじゃらと音を立てた。じゃらじゃら、腰を揺らしながら夜警はのたのたと歩いていく。すみません、と僕はその背中に声をかけた。聞こえているのかいないのか、彼は構わず歩き続ける。部屋が見つからないんですけど、僕は彼に並びながら言う。「何号室だい?」夜警はこちらを見ないまま言葉を放り出した。508号室です。「じゃあ5階に行けば見つかるじゃあないか」いま僕たちがいるのは何階なんでしょうか?僕は尋ねる。「さあ、知らないねえ」彼は大した興味もなさそうに言う。「窓の外、あの中庭に女がいるだろ?あれに聞いてみたらどうかね」僕は窓から外を見下ろす。中庭では何人かの少年が踊っていて、右端の方にアクセサリーをいくつもつけた女の人が煙草を吸っているのが見えた。夜警が言っているのはあれのことだろう。ありがとう、と彼に告げて、とりあえず下に降りる階段を探すことにする。


 誰もいない廊下を僕が走っている。両手に持ったナイフとフォークから血がぼたぼた落ちる。呼吸音が耳ざわりだ。さっきから何度も後ろを振り返っている。廊下には一人しかいない。何度も振り返りながら足を緩めずに走り続け、目の前の階段を駆け下りる。下りた先にはドアがあって、あそこに逃げ込んでひとやすみしよう、だいたいそんなようなことを僕が思う。息を切らせたまま扉を開けると、そこにはさっき出てきたはずの食堂がある。赤いチェックのシャツを着たョン・レノンにそっくりな男がこちらに気付いて、右手に持っていたナイフを振りかぶった。僕が無我夢中でナイフを突き出す。何か柔らかいものに刺さった感触がしたあと、食事用の薄いナイフは根元からぽっきりと折れた。折れたナイフを投げ捨てて逃げ出そうとする。振り返ったところに、青いぶかぶかの服を着た夜警が立っている。仕方がなかったんだ、僕の口から言葉が漏れる。仕方なかった。仕方なかったんだよ。夜警は憐れむようにそれを見て、「ここからは出られないんだ。チェックアウトはいつでもできるがね。出ることはできないんだよ」と言う。後ろでは血だらけの人々が殺しあっている。仕方なかった、仕方なかったんだよ、僕はまだ呟いている。

 

 僕は中庭に立っている。中庭では何人もの人たちが踊っている。赤いチェックのシャツを着たジョン・レノンにそっくりな男が近寄ってきて微笑みかけるが、僕は踊ろうとはしない。月の光が中庭全体に青い水をひたひたに満たす。僕の隣にはいつの間にかボーイが立っている。シミひとつないシャツ、不規則に動くのどぼとけ。「猫の泣き声をお聞きになりましたか?」彼は前を向いたまま誰にともなく尋ねる。「あの声。あの、絞め殺されるような声。本当に耐えられない。猫がね、いつも泣くんですよ」青い水が踊る人たちをひたひたと満たしていく。僕は右胸のポケットから煙草をとり出し、それをくわえて火をつける。ボーイはまだ猫の鳴き声について話し続けている。青い水の中で、人々はいつまでも踊り続けている。