昨日は、大学のころにお世話になった先生(つまり教授ですね)が退任なされるとのことで、たくさんのひとが集まりました。
テーブルには、その先生の過去の作品から作ったテーブル札。
ビールなども写っていますが、残念ながらぼくには飲まれません。

これは別の作品のもの。

名札もおなじように、先生の作品の絵がプリントされたピンバッジでとめるのでした。

その退任される先生のほかに、お世話になった先生が幾人かいらしていて、卒業してもう10年以上にもなるというのに、お会いするとすっかり師匠と弟子、という関係性に戻るのでした。
こちらの仕事の様子なども気にかけてくださって、覚えていただいていただけでもすっかり恐縮してしまうのでした。(なかば、説教のような気もしましたが)
以前に、学び=真似び、であると書いたのですが、師を真似するのが、つまりは学び、というようなところでしょうか?
ああ、そうでした。思い出しました。
ぼくがこれまで経験した授業の一番と面白かったのは、大学の哲学の授業でした。
その教授(上の作品の先生たちとはぜんぜん違う先生です)は、授業の時間には、テキストも、板書も、出欠さえなく、時間になると教壇に立ち、右に左にうろうろしては、ゼノンのパラドクスだとか、水槽の脳のはなしだとか、そういうものをぶつぶつと口にしながら、時折水筒のお湯を飲むのでした。
そしてまた時折、「ああ~!そうだった」なんて一人で納得したり。
そんなことをするものだから、ぼくはその先生の一挙手一投足や、教室の雰囲気から目が離せなくなるのでした。
学習というと、知識をたくさん覚えていって。というような感じがするのですが、知識というのはつまりは成分のようなものでしょうか?
例えば、成分を集めてもものにはならないのです。(成分もないと困りますが)
ひよことおなじだけの、炭水化物やたんぱく質を器に集めてみても、それはひよこでないのとおなじく、知識をたくさん集めてみても、なかなかね。人格だとか、知恵だとかにはならないのですね。
つまりは、先生のはなしを聞いて「よくわからない・・・」というのは、「あの先生のはなしはわかる」というよりももしかしたら素晴らしいことなのやも知れません。
つまりは、師はいつまでたっても、追いつけなく理解が不能なので師であるのです。
この人には敵わないなあ、というね。そういうことですね。
(草の知恵には敵わないなあ~と思ったら、草からも学ぶことが多いし、にゃんこ先生だってキャット空中三回転を教えてくださるわけです)
・・・なんのことかわからなくなってきましたね。ふむふむ、それでよし。
で、同級生たちともひさびさに会ったりもしました。
これは、あれのカバーです。友人の仕事の関係らしいのですが。
なんと、薄い薄い木を幾枚か重ねて貼りあわせて作ったのだといいます。

こういうものを見ると、どうもみんなはじっこの処理だとか、作り方が気になってしまうのでした。

こんなに薄く木でできているのに強度がでるものだなあ。なんて。

同級生たちは、だんだんといろいろな仕事を成していて、はて、ぼくはというと、山に行ったり草を眺めたり、虫を追いかけたり。
いつからこうなった?と思ったのですが、思い返してみると、在学中も、大学の敷地内でカエルを集めたり、カナチョロ(カナヘビね)を探したりしていたのを思い出しました。
ぼくにはまだカエルがなぜコロコロと鳴くのかよくわからないので、カエル先生から学ぶことにしましょう。しっぽの無いのはカエルの先生とぼくはおそろいですね。
テーブルには、その先生の過去の作品から作ったテーブル札。
ビールなども写っていますが、残念ながらぼくには飲まれません。

これは別の作品のもの。

名札もおなじように、先生の作品の絵がプリントされたピンバッジでとめるのでした。

その退任される先生のほかに、お世話になった先生が幾人かいらしていて、卒業してもう10年以上にもなるというのに、お会いするとすっかり師匠と弟子、という関係性に戻るのでした。
こちらの仕事の様子なども気にかけてくださって、覚えていただいていただけでもすっかり恐縮してしまうのでした。(なかば、説教のような気もしましたが)
以前に、学び=真似び、であると書いたのですが、師を真似するのが、つまりは学び、というようなところでしょうか?
ああ、そうでした。思い出しました。
ぼくがこれまで経験した授業の一番と面白かったのは、大学の哲学の授業でした。
その教授(上の作品の先生たちとはぜんぜん違う先生です)は、授業の時間には、テキストも、板書も、出欠さえなく、時間になると教壇に立ち、右に左にうろうろしては、ゼノンのパラドクスだとか、水槽の脳のはなしだとか、そういうものをぶつぶつと口にしながら、時折水筒のお湯を飲むのでした。
そしてまた時折、「ああ~!そうだった」なんて一人で納得したり。
そんなことをするものだから、ぼくはその先生の一挙手一投足や、教室の雰囲気から目が離せなくなるのでした。
学習というと、知識をたくさん覚えていって。というような感じがするのですが、知識というのはつまりは成分のようなものでしょうか?
例えば、成分を集めてもものにはならないのです。(成分もないと困りますが)
ひよことおなじだけの、炭水化物やたんぱく質を器に集めてみても、それはひよこでないのとおなじく、知識をたくさん集めてみても、なかなかね。人格だとか、知恵だとかにはならないのですね。
つまりは、先生のはなしを聞いて「よくわからない・・・」というのは、「あの先生のはなしはわかる」というよりももしかしたら素晴らしいことなのやも知れません。
つまりは、師はいつまでたっても、追いつけなく理解が不能なので師であるのです。
この人には敵わないなあ、というね。そういうことですね。
(草の知恵には敵わないなあ~と思ったら、草からも学ぶことが多いし、にゃんこ先生だってキャット空中三回転を教えてくださるわけです)
・・・なんのことかわからなくなってきましたね。ふむふむ、それでよし。
で、同級生たちともひさびさに会ったりもしました。
これは、あれのカバーです。友人の仕事の関係らしいのですが。
なんと、薄い薄い木を幾枚か重ねて貼りあわせて作ったのだといいます。

こういうものを見ると、どうもみんなはじっこの処理だとか、作り方が気になってしまうのでした。

こんなに薄く木でできているのに強度がでるものだなあ。なんて。

同級生たちは、だんだんといろいろな仕事を成していて、はて、ぼくはというと、山に行ったり草を眺めたり、虫を追いかけたり。
いつからこうなった?と思ったのですが、思い返してみると、在学中も、大学の敷地内でカエルを集めたり、カナチョロ(カナヘビね)を探したりしていたのを思い出しました。
ぼくにはまだカエルがなぜコロコロと鳴くのかよくわからないので、カエル先生から学ぶことにしましょう。しっぽの無いのはカエルの先生とぼくはおそろいですね。