ネコソギラジカル〈上〉十三階段 (講談社文庫)/西尾 維新
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狐さんの宣戦布告に続き、大切な人・浅野みいこさんへ刺客が送られ、先制攻撃を受けたいーちゃん

迎撃のため情報収集に飛び回り、兵隊も揃えて準備万端

乗り込む敵陣は、澄百合学園――


ってな具合の戯れ言シリーズ、終わりの始まり、といった趣でしょうか

この作品のテーマとなるのは、世界は物語である、という狐さんの理論

つまり、世の中にはストーリーが存在し、それに沿って動いているということです

ストーリーは大筋で改変不能で、配役を降板させても、ある行動を意図的に取りやめても、代役が立ち、別の行動が意味を持つようになる

それが、ジェイルオルタナティヴとバックノズルという補完理論です

簡単に言うと、予定調和、ということでしょうか


そういった設定の中で、戯れ言遣いのいーちゃんを一方的に敵と決めてかかる狐面の男・西東天の思惑はなんなのでしょうか

物語を加速させ、世界の終わりを見ること

不思議な目的です

そもそも狐さんの理論から言えば、物語に世界の終わりが予定されていれば、特に働きかけなくとも自ずと見ることができるはずです

物語の存在を肯定するなら、世界が終わること、すなわち物語が終わることは物語の中に既に織り込み済みだということもできると思われます

役も役割も代替可能なはずなのですから、自らを因果から追放された身であると位置づける狐さん自身の代役だって存在し、喩え意識的ではなくとも世界を終わりに導くことでしょう

それなのに、そういう建前を無視してまで暗躍する狐さんの意図は何なのか

つまり狐さんはオーディションに受かりたいということ?

自分が世界に引導を渡す役割を演じたいということ?

しかしそれは無理な相談

因果から追放され傍観者に成り下がった狐さんには、物語と関わることができないはずなのです

だからこそ、自身が物語と関わるための装置として〈十三階段〉という組織を創設したわけですから…

なんだか矛盾を感じますね

因果から追放されたはずの狐さんは、縁は持っている

人とその行動に関わることはできる、ということです

世界が物語だというのならば、そこに存在するものは役者です

反対に、因果から外れたものは、観客でしか在り得なくはないでしょうか

そうすると、観客が役者に指示を与えること、関係を結ぶことは不可能です

ルールが壊れている

つまり狐さんは、彼の定義で言うなら〈十三階段〉を組織できないということです

しかし、実際問題として〈十三階段〉は作られた

その事実から帰納法的に、因果から追放されるということはあり得ないと言えないでしょうか


狐さんの論理には、ことほど然様に矛盾点があるように私には思われますが、いーちゃんはまだ論理戦を狐さんに挑んでいません

これまでの物語で語られてきた狐さんの理論に、いーちゃんは随分無意見過ぎると思います

唯々諾々として、反論しません

戯れ言遣いの癖に、らしくない振る舞いだと思います

何故か武力行使にこだわっているように見えるのは私だけ?

出鼻から狐さんに翻弄され続けるいーちゃんの本領発揮を期待しています