パーゼルとマニシはその姿に驚愕した。まさに巨獣そのものだった。危険と脅威の塊りそのものの姿だった。沼の底よりも深い緑の肌はこの獣の長い闘いの記録を物語り、禍々しい鉄屑の鎧には殺した戦士たちの癒されぬ苦痛が血となってこびりついていた。どこから千切り取ったものとも知れない鉄板を研いだだけの剣には錆の上に乾いた肉片が張り付いていた。戦士と獣の生々しい混血であるオークの顕現であった。

 圧倒されたマニシはそれでも必死の思いで何事かを言おうとしていた。その努力はまさに彼らしいものであったが、眼前にしてもまだ未知のものとして映る巨獣の姿に、言葉は何の意味もなさないと知るのみだった。

(こ、こいつが黒いボボ・オーニ・・・。)

 パーゼルの楽観も傲慢も塵となって消えた。これまで見聞きしたもの、誇りに思っていた経験、誰にも負けない自負のあった技術、それらすべてが全くの無力となった。心臓の鼓動が妙に落ち着いていた。尊敬の念すら沸き起こっていた。今のパーゼルには死を覚悟する以外に出来る事は無かった。

「お前達は狩人か?」

 最強のオーク戦士である黒いボボ・オーニが人間の言葉を発した。とてもオークとは思えない透き通った声だったのが意外でもあり、マニシもパーゼルも呆気にとられていた。言葉の真意を理解する余裕はなかった。答えられなかった。

「琥珀の杖を出してみろ」

 マニシはボボ・オーニを見上げたまま琥珀の杖を出した。

 オークがあきらかな驚嘆の声を上げた。苦しそうですらあった。

「寄こせ」

 手も足も縛られていて立てないので、マニシは琥珀の杖をボボ・オーニの足元に投げた。ボボ・オーニは足元に投げられた短い杖をすぐには拾わず、しばらくの間、じっと見下ろしていた。

 まさか警戒しているのか、とパーゼルが思った時、ボボ・オーニは腰を落とし、身を屈めた。が、それでもまだ杖を拾い上げず、じっと見ている。頭蓋骨に比べて極端に小さい目は、杖と何事かを交信しているようにさえ見えた。

 ボボ・オーニの歯はすべて金属で出来ていた。元々は生身の歯であっただろうが、それを全て抜いて加工した金属の歯を打ち込んだのだ。その金属製の歯列から、子犬の寝息によく似た音が発せられている。

 パーゼルはボボ・オーニから目を離すことが出来なかった。好奇心すら沸いていた。あり得ない事とは思いつつも、この巨獣には無垢な心が隠されているのではないかとさえ思った。

(けどよ、それだけで話の通じる相手だと思うほど、俺はめでたくねえよ)

 パーゼルは未だ何の策もなかった。生きてこの野営地を脱出する道筋は見えていなかった。彼の中で焦燥との戦いが始まっていた。

「将軍?あのぅ、あなたを将軍とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

 傷だらけの巨大な頭が持ち上がり、小さな目がマニシに向いた。

「将軍。あなたもシャーマンの方も、わたしたちに狩人かと尋ねられました。しかしわたしたちはその狩人という言葉が何を意味するのか知らないのです。教えてください。狩人とは、一体何を指しているのですか?」

 つぶらな目が熊よりも大きな頭蓋の中で忙しなく動くのが見えた。

(こいつ、動揺してやがるのか?)

 大盗賊パーゼルでも見通せない闇が、この混沌の中にあった。

 小さなパーゼルは大きな仕事が出来た。そうであればこそエルダリア中の都市に名が知れ渡る事となったのだ。そして今の彼はその自信を一度は失っても、再び取り戻そうとしているのだった。

 パーゼルはボボ・オーニ将軍から目を離さなかった。しかし獣皮のテントの間から亡霊のようにオークシャーマンが姿を現すのを見逃さなかった。オークシャーマンの濁った眼が夜の闇の中で緑色に燃えていた。それはこの混沌の中で唯一残された明確な意思であるようにパーゼルには思えた。

「お前は狩人だ」

 突然ボボ・オーニ将軍が言った。

「わたしたちが狩人なのですか?」

 マニシの言葉に将軍は何も答えなかった。代わりに琥珀の杖をつまみ上げ、マニシの方へ投げて寄こした。

「俺は将軍か?」

 ボボ・オーニは言った。マニシは数回瞬きをした。

「え?あ?は、はい、あなたは将軍です。このオーク軍の将軍です」

 台本に書かれたセリフをただそのまま読み上げる役者のようにマニシは言った。

「将軍!」

 ボボ・オーニが咆哮を轟かせたので周囲にいたゴブリンどもは腰を抜かさんばかりに驚いた。悲鳴を上げて逃げ出す者もいた。

 その咆哮を目の前で聴かされたマニシとパーゼルは耳鳴りに耐えながら、ボボ・オーニ将軍を見ていた。将軍は上を向いて、壊れたラッパのような音を喉から出していた。笑っているらしかった。

「狩人とは神の意志の代行者のことだ」

 オークシャーマンはボボ・オーニ将軍に並んで立った。琥珀の杖でマニシの胸の辺りを差し示した。

「お前が望む、望まずに関わらず、お前ははっきりと自分が狩人であることを証明したのだ」

「それはどういう意味なのですか?」

「意味などない。ただ我ら狩人がこのエルダリアにいる。お前の意志など無意味だ」

「それは神々の不在と何か関係がありますか?」

 オークシャーマンはマニシのすぐ目の前に落ちている琥珀の杖を差した。顎をしゃくっている。拾い上げろという意味であるらしく、マニシはその通りにした。

「神々など最早無意味だ。我らの意志が神々の意志となり、神々の意志が我らの意志となる。我ら狩人に導きはない。エルダリアの混沌と秩序は、今や我ら狩人に委ねられている」

「あんたらは戦を始めようとしてるんだろう?」

 パーゼルは言った。黙っていられる限界をとっくに超えていた。

「だったらあんたらの行いは混沌ってわけだ。つまり秩序の側の狩人もいるってこった。それが俺達だとあんたらは思ってる。だったら俺達を解放すべきじゃねえか?狩人の意志が神々の意志になるんだろう?俺達だって委ねられた者として好きにしていいはずじゃねえか。こんな風に縛られたまんまなんざ、フェアじゃねえよ。そうだろう?シャーマンの旦那?」

 オークシャーマンの目が大きく見開かれ、パーゼルを見た。パーゼルは怖気も知らずオークシャーマンを見返した。ふたりの間の緊張はすぐにピークに達した。しかし双方ともに譲る気はなかった。

「お前達を殺すのならば、それもまた狩人の意志だ」

 パーゼルの褐色の頬にニヒルな笑みが浮かんだ。その首が地に落ち、血の最後の一滴が流れ落ちるまで、自分の魂は砕けることがないとパーゼルは信じていた。この場にあってもその信念はまだ挫けていなかった。パーゼルは自分もマニシもロモでさえも殺されない方に賭けていた。

「おい!マジャ・バニ!俺は将軍になったぞ!おれは将軍だぞ!」

 オークシャーマンはボボ・オーニを見上げた。盛り上がった眉の肉が左右別々に上下している。

「将軍だと?」

「そうだ!将軍だ!狩人が言った!」

 マジャ・バニの目に怪しい光が灯った。マニシを見た。

「それがお前の意志か?狩人よ」

「え?ああ、そ、それは、そうですね」

 マジャ・バニの口からおそろしい絶叫が発せられた。老オークのものとは到底思えない獣じみた咆哮だった。オークの軍勢に動揺が走った。ゴブリンどもは意味も分からず走り回っていた。オーク兵どもは微動もしなかったが、緑色の肌に蛇のような血管が無数に浮かび上がった。地獄のような有り様だった。パーゼルはその様子を注意深く見ていた。何かが起こる予感がした。

「おい、マニシ。お前なんかマズい事言ったらしいぜ?」

「そ、そうらしいですね。で、でもどうして私の言った事がマズい事なのでしょう?ど、どうもその辺りの意味が、よくわから、」

 ボボ・オーニ将軍がマニシの体を片手で掴み、縛った縄が引きちぎれんばかりに持ち上げた。マニシの言葉は遮られた。

「俺は将軍だ!戦うぞ!お前たちの国と戦う!俺は人間のライレリアを滅ぼす将軍になるのだ!」

 突如、オーク兵たちが声を上げ、武器を打ち鳴らし始めた。無数のドラムが乱れ打たれたように地が鳴動した。1000年の眠りについた巨人でさえも眠りから目覚めるかに思えた。

「待ってください、将軍!私は、私達は戦争を望んでいません!待ってください!将軍!私の話を聞いてください!」

 軍が動き始めるのをマニシもパーゼルも感じた。まるで一匹の獣が体に怒りを宿し、敵を探し始めるような気配が軍全体に漂い始めていた。あまりに予想外の出来事だった。ゴブリン達が何かに怯えるように駆けずり回っている。その目は血走っていた。彼らにはこれから何が始まろうとしているのか、よく分かっているようだった。