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 50年代初頭、写真家ジョン フレンチの新しいライティング テクニックの開発で、それまで新聞紙面では、イラストでしか紹介できなかった最新ファションが、ファション写真として載せられるようになった.


雑誌よりも広範囲な~だれにでもいきわたる媒体である新聞でみられるファションページのそうした変化は、当時の人達の開放感の喜びとも通じるものだったファションに対する感心を、よりいっそう高めるのに、ずいぶんインパクトがあったであろうことは、経験していなくとも簡単に想像できる。  


 ...そしてそのことを物語るかのように、ジョン フレンチの助手を勤めた後、イースト エンド~ワーキングクラス 出身の、D ベイリー、 B ダフィー、T ドノバン・・・>スゥインギング ロンドン60sの一翼をになったスターであり才能豊かな/それぞれ違った作風、個性をもつ/写真家達の存在がある。  


 といっても、ジョン フレンチは、たとえば映画のポスター、ブローアップでみられる様な写真家とは、

全く違う。 モデルの指1本にも触れるようなマナーは、まったく持ち合わせていない。

~そんな60sのリボリューション以前のグランドな写真家だったよう。  

 

ライティングテクニークを駆使し、彼は最も女性を美しく撮ってくれる写真家だったから、モデル エージェンシーとしては当時、新人モデルは必ず彼のスタジオを訪ねさせたそう。  

/するとモデル達は、パールのネックレス+1粒のピアス ...白い手袋も ~必ずそういったものを付けさせ、撮影スタート。 …そんな美観の持ち主で、彼自身カーディガン姿とはいえタイをしめたピンストライプのシャツ、グレーのトラウザーズ ~そんなスタイルで撮影に臨んでいたそうで、とてもエレガントな方だったよう。


//。。。おもわず笑がでてしまう程、師弟とはいえブロー アップのポスター イメージとは違う写真家。


...残念ながら私のロンドン時代には、既に亡くなってしまっていた、グランドな写真家。


 


  



 テディーボーイズはワーキング クラスの若者中心に派生、だったけれど、マリー クワントや彼女の当時はまだボーイ フレンドだったアレキサンダー プランケット グリーン達のような、当時アート スクールに在学 ~そんな若者はビートニックに興味あり~やビートニックだったりと、別種の装い方で~やはり自身を目立たせ!だったよう。 


 なにしろアレキサンダーは、日常用にシルク シャンタンのパジャマの上着、彼の母の細身の上質なトラウザーズ、といった着こなしで、マリーはハイソックスに当時としては短い丈のギンガムチェックのスカート姿。  ~・・・アヴァンギャルドで人目を引く~おしゃれな着こなしをしているような、アート系の若者だったそう。  


 ...とはいえ、2人がキングス ロードにバザーをオープンした55年頃は、まだ若い女の子の為のファションは、 ほとんど手に入らない、そんな時代でもあったよう。  まして若くて未経験な上に、イラストレーション専攻と、服作りのノウハウなど習ってはいなかったマリー クワント。/~そんな状況を深く考えることもなく過していた。


 55年21才で(~もちろん裕福な出身でアヴァンギャルドな彼、アレクサンダーのサポートで/バザー店をオープン。  当時のキングス ロードはビートニックの若者がちらほらたむろするような住宅街~

文化的なチェルシーの雰囲気がもちろん2人共気にいての事でもあったそう。  


 ...ところがマリー自身欲しいものを売る為に探し回ってみても...どうも見つからず。。。仕入れるなど

不可能。。。 気に入るものが揃えられそうにない~そんな状況に直面。


それなら→作ろう!ということに。  //ところが布地を問屋で仕入れるということも気ずかず、ハロッズで購入し、既存に売られているパターンに手を加え好みに変化させ、アート スクールの友人達がマリーのフラットに集まり夜な夜な縫製。 /マリーの考案していた当時の服は、シンプルで動きやすくカラフルに色ずかいを生かした~そんなだったそう。) 


売る服と合わせるアクセサリーも、アート スクールの誰かが制作、ウインドウの飾りつけも自身のアイディアを生かし、いかにも若いアート スチューデントらしい発想~常にシュールなスタイルを試み

//~実際の人間をウインドー マネキンにしたショップ ウインドーも、この一環) 人目を惹くよう工夫し話題を振りまく。。。


 そんな今までとは違うフレッシュなアプローチで! /若者発信のまたテディーボーイズとは違ったの

アピール。


・・・何故夜な夜な徹夜で友人知人が毎回新しいデザインを縫製しかと言えば・・・

                                                 毎日売れてしまうから 


 (マリーとアレキサンダーのバザーは、同じような趣向を持った~>クリエイティブで自分達なりのおしゃれを求める、そんな若者達のトレンディー スッポト~たまり場的でももちろんあったそう。)

 若者らしい無軌道さに溢れた//すっかりファション界を無視~というより気にも留めずスタート//


→そして直に・成功、だった。 



 戦後のパリ オートクチュールのファション リーダーとしての活躍~影響力はともかく
めざまいものだった。

復興も手伝い誰もが仕事にありつけ、ラジオだけでなく映画、レコード、TVも一般に浸透し
始め、車や飛行機での休暇までもと、見るもの聞くもの触れるもの~あれこれ範囲も広がり、
フレシュで前向きな社会~日常。。。 

もちろん、まだ配給制度なども施行されているような時代ではあったけれど、だからこそ人々はファションに関心をもったのかもしれない。 既製服産業も大きく飛躍したことは言うまでもない。
~簡単に誰でも多少のお金を使えば直にでもパリ風の最新のおしゃれを着ることができる 
~>そんな楽しみ! 
既製服会社にとって、パリ クチュリエの毎シーズン発表される新しいスタイルは、次期プロダクションの大きな指針であり経営をのばしてゆくフォースでもあった。

 ニュー ルックに始まり、プリンセス ラインだ、Aラインだ、チューリップ ラインだ、Hラインだ、、サックスだ...伝々。 
 そのスタイルやシルエットが似合うかどうかという事よりも、ウエストを締め上げ苦しくともそのスタイルに! Aラインのコートが重すぎようが、Iラインのスカートで歩行が制限されようが ...そして直に流行おくれで着られないとなれば、また次のスタイルに合わせ、新しいスタイルをそれとマッチする帽子と共にフォローする~そんな女性達。 

 ディオール、バルマン、バレンシアガ、スキャパレリから独立したジバンシー等々、
50年代前半のパリのトップ クチュリエ ハウスは、毎シーズン新しいスタイルを発表し、
話題を独占していた。 
            そして大衆はそれを喜んでフォローした。
そんな時代の54年、シャャネルがパリ クチュリエ界~ファション界のあり方を~>50
年代の悪趣味と語り、 カンバック。



彼女の→着安く女性が行動しやすい、変わらないスタイル~シャネル ルック(言ってみれば
彼女が30年代に築いたそんなモダーン レトロなスタイル。 
       /とはいえ考えてみればニュー ルックの元となるスタイルより新しい/笑...)

 ...当時そのコレクションは賛否両論で話題をさらったりもしたらしいけれど

      ~>動きやすく、ポケットもある! 
            /...受け入れられないはずがないことは、言うまでもなく・でもあった。
 




 


 戦争で重く束縛された生活、物不足、爆撃で荒廃した街 ~そうした現状を変えるべく、第二次境大戦後の英国では、労働者不足を補う為に植民地からの移民/ジャマイカ等から/を募ったり、若者も仕事に困る事もなく、得たお金を自身の為に使えるようになり→若者の自我を自由に発揮できる状況がクリエイトされていった。

 当時アメリカ軍の英国駐留などは、アメリカの戦争参入によって終結~そんな好印象もあり ~>アメリカンなもの →ジャッズやジャイブ、ロックン ロール ~彼らの着こなし、たとえばズート スーツ、ブルー ジーンズ、女性のシャツウエスト、ツイン セット等々/ガールズに関してはキャルフォルニアン ルック、といったカジュアルな傾向が主で、メンズのように・続 と特別に呼ぶほどの存在感を示す程ではなく、当時はボーイズの方が目につく。)

 映画が最大の娯楽であった時代であり、イアリアやフランス映画の男優の着こなし、映画の中に出てくるキャフェ ~カプチーノ...ソーホーのイタリアン ウエイターや映画でも乗っているベスパ。。。 モッズ~モダニストと呼ばれた初期のモッズ~フェイスは、映画のスターやシーンなどから多くを取り入れた若者の創作スタイルで、やはりテイラーを巻き込んでのものだったけれど、またエドワーディアンを主に取り入れたテッズとは別種。 

 ...テディー ボーイズの方に話を戻してみても、エドワーディアン スタイルを取り入れてはいるけれど、英国紳士の象徴のような細く捲いた傘や、山高帽子、といったエドワーディアンはミックスされていない。

 帽子ではなくリーゼントの髪型、腕や指に刺青、伝々 当時若者にとって目新しくカッコイイ!が反映された彼ら目線のミックス&マッチ=>ロンドンを中心とした英国の若者独自の装い~ファションのスタート。 戦後、ロンドンのアッパー クラス~紳士と呼ばれる人達の間で取り入れられ始まったメンズ界のニュー エドワーディアン ルックは、サビ ロウから一般紳士服業界にも広まっていった、だったけれど...一般紳士服業界にとっては~>テディー ボーイズの出現で心配の種でも... になってもいったよう。




  

 ...クリスチャン ディオールのニュー ルックが発表され、ファション関係者を初め大多数の女性の心を掴み、パリ オートクチュールは世界のファション リーダーの地位を確固たるものとし、50年代繁栄した。

(顧客がいわゆる英王室を筆頭としたアッパ-クラスにほぼ限られたロンドンと比べ、たとえば当時のロンドンではトップ クラスのクチュリエ グループといえば、12軒ほどだったのに対し、パリのトップ クチュリエ グループは、50軒以上も。 /...クリスチャン ディオールなどは1000人もの人を抱え、それほどでない所でも、その半数、だいたいどこも500人程だったそう。  

仏繊維業界も当時はまだ残っていたから、そうした産業界からの支援+仏政府の保護政策もファション業界~パリ オート クチュール協会やディオールに対してなされていた。)


  。。。メンズ ウェアーの方はといえばまずは、やはりパリよりもロンドン。

サビル ロウ辺りの話から。。。 メンズ ウエアーのニュー ルックに当たるスタイルと言えば、戦時中の軍服などといった機能重視一辺倒からエドワーディアンのアッパー クラスをイメージした(男性もラクシャリーで自然なおしゃれ/ダンディーを楽しんだ…に心惹かれ)

…そうしたスピリットや技術を維持していたサビル ロウの、ニュー エドワーディアン スタイル。


...いわゆる50年代に始まったテディ ボーイズ ルック ~細身のズボン、ヴェルベットのパネル状の襟に胸の上部からつけられた上着のボタン、ナチュラルなショルダー スタイルのコートやジャケット、ラクシャリーな素材のウエスト コート、シャツはカフス ボタン タイプ、等々~装飾性の高いあのスタイルに代表される。


当時はテーラーの数も多かったろうからサビル ロウ辺りでとまではいかなくても、私の思い出す70年代のテディー ボーイズのイデタチよりもウエル メイドな、おしゃれに身を費やした

~そんなテディー ボーイズのオリジナル ヤングの~ショウ オフ スタイル→そうあることが…階級社会を無視していることを示す! ~若者達の反抗の見せ方のスタートと言える50sは、パンクの70年代とは時代背景も手法も違う.。


 またピエール カルダンの紳士服として発表された襟なしスーツも、エドワーディアンに着用されていたスタイル。

そんな事からもわかるように、50年代サビル ロウ辺りから発信されたニュー エドワーディアン ルックの影響は、当時のメンズ ファション界のあちらこちらに取り入れられ、活用された。


 PS::正確にいえば40年代末ニュー エドワーディアンの動きははじまっている。 

世界一の称号を何度もとっている ~そんなテイラーのニュー エドワーディアン スタイルが

50年に受賞されたことで、より明確になった50年、 そんな経緯。    


  

 近頃く50~60年代のファション界の変転に一寸触れたので、ついでに

<SEMI DO IT YOURSELF> だった時代にも若干触れて起きましょう。  


 装店に行って、サイズを測ってもらい服を新調する ~そんな男性がスーツを作るのと同じようだったり、ファション誌を購入し載っているドレスやスカートで気に入ったものがあれば、その原型モデルの解説を読み、自分の寸法にあてはめ原型を修正し自分用原型を作り上げ、好みの布地をそれにあわせてカットし、縫製する。 


 またファション雑誌VOGUEの関連会社、ボーグ パターンや、アメリカのマッコールといった型紙会社のスタイルが気に入れば、その型紙を買い同じように制作する。 /欧米ではこのパターンで自分や家族の服を作ることが、日本以上にポピラーだったよう。 

だからVOGUEは別会社をつくり、パターン販売をしていた。 (そんな時代には、パリ クチュリエ デザイナー デザインの服のパターンも販売したりという事もあったりしたよう。)


 もちろんそんな時代は、服飾学校に通う人、ミシンを使っている人も、もちろん洋装店も沢山あり、でもあった。 そんな言ってみれば<ファション~おしゃれの<セミ DO IT YOURSELF 時代>があり、パリ クチュリエの他社制作の既製服/デザインとパターン供給、素材のサジェスチョンといった、

ライセンシングへと変化していった。 

 
 ずいぶん前に、日本のファション誌はアン アンが最初だという話が眉唾ものだというのを書いた覚えがる。その事に関してアン アンがエル誌との提携で始まり、エルは女性誌だけれどVogueのようなファション誌ではない、そんなことで書いた。

けれどそれだけでなくこうした戦後の女性ファション~業界の変転からも、やはり・・・


ワケの解らない話な訳で...。 


                                               





    
   

 ピエール カルダンがディオールから独立後、C ディオールの後継者としてディオールに指名されたのは、まだ21才だったサン ローラン。 /ディオールの助手となってそう歳月もたっていなかったらしい。


その若さ、キャリアの浅さなど、まわりはだいぶ驚いたようだったけれど・ディオール氏の指名だったそう。 


 50年代末頃のことだったけれど、その時代ロンドンのマリー クワントは、キングス ロードに

オウン ショップ・バザーを持ち<20代前半のはやい時期にオープンさせ>もう一軒を、ナイツブリッジにオープンした前後だった事を考えれば、そうした世の中の新しい動き~ヤング パワーを意識し、C ディオールがサン ローランを彼の後継者として選んだことも、彼が持ち合わせた才能共々だろうことは~

理解できることでもある。


 今まで築き上げてきたディオールの名声に+時代の息吹~ヤング パワーの息吹を!と願ったからだったろう、C ディオールのデザイナーとしてニュー ルック以降も、常に世上をうまく取りいれたデザインを、クチュリエのすばらしい技術で仕立てあげ、顧客やファション ジャーナリストの心を掴んでいた

デザイン~ビジネス センス。


ただクチュリエを支える人達が、彼と同じような意識を持っていたかといえば、職人気質諸々考えると~?


 .最高の技術を保持した職人としてプライドを持つ彼ら、未経験に近い若者を補助し、一丸となって支えていこうとすることも~させることも、並大抵なことではない... /そんな事も想像範囲でもある。


サン ローランが後継者として指名され、そう歳月が経たずで...亡くなってしまったクリスチャン ディオール。


サン ローランによるC ディオールのコレクションは、ファション ジャーナリスト達の心配をよそにうまくいき →大成功だったそう。   スタッフは誰もそっぽをむかず、彼を支え発表されたルースなシルエット

  /...実にそのシルエット~シェイプは、マタニテーイ ドレスとし今も健在。  


 最初はそんなであったけれど、若いサン ローラン、結局ロンドンのヤング トレンド スタイルを取り込み~(すぎ?) 内部でのサポートを失い →.長続きすることなく→軍隊行き!を理由に、C ディオールを去る結果に。



 2011・11・02のブログ(ビートルズの襟なしスーツはピエール カルダンではない)の中では書かなかった ピエール カルダンのことで少し。。。

 

 ニュールックと呼ばれた・第二次世界大戦終結の喜び~開放感をそのまま美しく表現したかのような、

クリスチャン ディオールのコレクションは、当時その新鮮な美しさに感銘したジャーナリストが名ずけたもの。 


そのコレクション(スカートを何枚も重ねたペチコートで膨らませ、絞ったウエストを強調してみせているシェイプ)がきっかけで、押しも押されずの THE オート クチュールハウスとなった~ クリスチャン  

ディオール。    そこで助手を勤め、50年代のある時期独立したのがピエール カルダン。


 以前ビートルズの襟なしスーツでも触れたピエールカルダンは建築を学んだ後、ファション デザインに進んだ人で、当時を代表する斬新なファション デザイナーであり、カットの名手としても知られ、60年代の宇宙ルックなど/~たとえばヘルメットのような帽子を被ったスタイル、幾何学的なカットで切り替えた模様ワンピースなど、 

         私達の年代でも思い出せる程、津々浦々~巷に話題を振りまいていたデザイナー。


  斬新だったからなのか ~>それとも経営上のこともあってか?

/その辺りは私のジャーナリスト時代.以前の事だし断定は出来ない まぁ理由はいくつかあるのが常)

ピエール カルダンは..パリ オートクチュール界で初めてライセンシング~自身のアトリエ作~ホーム

メイド的手法以外の、同業種の他社とのビジネスで収入を得る、を実行したパリ オート クチュール 

ハウス~デザイナー。


そんな行為でバッシングを受け、一時パリのクチュリエ協会から除名されもしてたけれど。。。結局どこもそんな収入源は魅力でもあり/…いずれにしてもパリ クチュリエのスタイルは常にコピーされ世に広まる、けれどそれはクチュリエ自体を潤すのではなく、真似~影響を受けて作った別の会社や洋装店に富をもたらし、といった現状。 

また、そんなデザイン、カット、仕立てまでも特別な技術者の手にかかった高価な服を注文できる客という存在も、やはり限られる。 &そうした状況についてまわるのが、人々の憧れ ~真似したい。。。


布地や仕立ての方法を変えた、クチュリエ発のデザインをクチュリエの名前の使用権と共に、マス相手のファション会社と契約を結び売る=ライセンシング →職人気質+プライドを持ったトップ クチュリエにとって最初それは侮辱的な事に感じる~そんな集金方法に写ったのだろうけれど、背に腹は換えられない現実、また自分達の作品が結局あれこれコピーされ、意にそぐわない~不様なコピーにイラつかせられるよりもきちんと契約を交わし、デザイナーの名の元にデザインをプロバイドし、他社が生産、管理、販売していく  ~そんなビジネスにどこも目を向け行うように変わっていった。


 そんな事で結局カルダンは、除名されたパリ オートクチュール協会に再び復帰~向かいいれられた。 

だから、パリ オートクチュール界のビジネス展開の開拓・デザイナー=ファション ビジネスマンといえる方。


…もちろん、メンズ ウエアーの展開、ライセンシングも、誰よりも早くスタートさせた

=ピエール カルダンだった。  


 

 MOMAにはリチャード ハミルトンの→あの画!もあった。

                         
         <60sのThe Star>ロバート フレイザーとミックの逮捕...          noclimbのブログ


Swingeing London ひどい~厳しい ロンドン といった意味で、Swinging Londonをもじったタイトル   



 あまりに60sらしい<good boys=Beatles , Bad boys-Rolling stones>ロンドン警察から目をつけられ張り込まれBadImageにのっとたキース邸での逮捕劇。                               
・・・~>ということで以前書いていた、60sを代表する・グルービー ボブ こと ロバート フレイザー。

 キース 邸の件とは…ミックの着ていたジャッケトのポケットに数粒のドラッグが入っていた・でつかまった件。 /...以前書いたものを彼の話題に絞り+-し本日~・・・
                              ~>あの有名なリチャード ハミルトンの画!

腕をあげて顔をさえぎっている...ミックともう一人…あの絵の奥の人が、ロバート フレイザー!

・・・スゥインギング60sのロンドンをチェックすると、必ずトレンディーシーンに顔を出す

             ロバート フレイザー★~グルービー ボブ~★

 /...えぇ?!…ロバート フレイザーは、ジム ダインの展覧会の展示内容で、キース邸以前にも逮捕されている!

展示されたジム ダイン作品が、昔~100年前につくられた法律と照らし合わされ、法律違反とされた!? ...まぁ警察の嫌がらせ ~見せしめ的逮捕であるとしか考えられない出来事だけれど)~なんて事もあったり。。。  ともかくロンドン60sの凄い人物

 彼の<Robert Fraser Gallery~ ロバート フレイザー ギャラリーは、ポップ アートの創始達、この作品の・デヴィット ハミルトンはもちろんのこと、パオロッジ、アンディー ウォーホール 、ブリジット レイリーなどなど。。。これぞ60sを代表するモダーン アート&アーティストの当時メッカだったギャラリー。 

・・・そう、 スゥインギング ロンドンの!あのロバート フレイザー ギャラリー。

               そして彼は、スゥインギング ロンドンの・ザ トレンド セッターと言える人物。

 たとえばビートルズのアップル~あのイメージは、彼がさりげなくポールに残しサジェストしてくれた~>どうやらマルグリッドからのイメージだったよう/が発端だったり... /チェックすればするほど数々の・驚くような <...実は彼が元で>…~そんな人。

                  グルービー…当時代表格の若者連中を魅了した人。


 <...大金持ちの家系生まれ~イートニアン> と→生まれながらのシルバー スプーン派エリート~!
(...だけれど、アイランド レコードの創設者のような、ビジネスマン とはまた別種。)


   *:..。o○☆あくまで GROOVY BOB★゚・:,。゚・:,。 テイストフルでフランボヤント

 常にお抱え運転手とロールス ロイス/歩いて直ぐの距離の自身のギャラリーへもそうだったそうで
パーティーにはお抱えシェフを伴い、話してもさりげないサジェスチョンで相手を喜ばせ・・・と、逸話は尽きない。


 ~>まるでオイル リッチなアラブのとびっきり垢抜けた先輩!?~…のような日常、それにドラッグ... /彼が売るのはもちろん、彼が選び取り扱う絵画、作品だけれど、常にあらゆるドラッグを手元に持ち。。。

 70年代にはロバート フレイザー ギャラリーは本人がインドに移り住み既になく、60年代に名を馳せたロンドンのモダン アート ギャラリーはといえば、D.ホックニーを世に出した、カスミン ギャラリーだった...。

 ロバート フレイザーは、80年代半ばインドからロンドンに戻り、再度ギャラリーをオーガナイズしようとしたけれど、エイズで他界。。。  /...英国で初めてのエイズで死んでしまった方でもある...。

 グルービー ボブ ~ ロバート フレイザー 。。。なんともフランボヤントな人生。。。              






 やっぱりこの間のNYで、写真の話となれば・・・ 英国の巨匠ビル ブラントの展覧会も。。。

 彼の作品で<シャドウ&ライト>といえば、当然グランドな風景~そんな風に思って / まともな彼の展覧会はなんだか70年代V&A以来かもしれない //すっかり久々!と、懐かしさも手伝い足を踏み入れてみたら、一寸違うタイプの<影と光>を扱ったもので、あまり知らなかった彼の様々な・~興味一入に。

           こんなシュールに捉えたロンドンの魚を運ぶ魚屋さん!      
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 だったり...

     多分60年代後半のツッパっていたカメラマン達はこの構図がヒントだったのかなぁ...?    
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                                                    な・ヌード

     そして60年代の初めには、アーティストの目のポートレイトで、シャドウとライト    
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     マックス アーネスト、 ジャン ドゥビュッフェ、ジャコメッティ、 ジョルジュ ブラック。。。

 もちろん英国だからヘンリームアー などなど.../グランド スケールでは,気ずかなかった構図

 ~見方の数々。。。

  ビル ブラントがPOST誌で働いていた当時のPOST誌なども展示され/

 ...こういうもの撮ってたんだ...!の連続で~>//彼に対して知識が欠けていた・も手伝い/...笑/ 

                                     ・・・でも、よけいエンジョイアブルに。