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ことばとくずかご。

大学院のときに勉強した辞書や社会言語学のことを

忘れないうちに記録しておこうと思います。

テストの花道というNHK教育の番組がおもしろい。
後ろにいる人がわかっているから安心しているのもある。

140キロの塩と7キロと2キロのおもりがあります。
天秤を3回だけ使って、塩を90キロと50キロに分けるにはどうしたらよいでしょう。

かならず解けるようになる。しかも答えは何種類もある。
PISAで言う「情報の取り出し」的なところを「データの収集」と言っていた。
その前には自分が解決すべき課題をまず確認するようになっていた。
そして仮説を立てる。熟考・評価にあたるのかな。
簡単な加減乗除の範囲だから、これは算数、というよりは読解力の問題。
たった1問に約30分の番組時間全部を使っていた。
や~これみんな見たらいいのに。
そしたら思考停止してる人がもちょっと減るのに。
借り物でない自分のものさし持ってる人がもっと増えるのに。
そしたら本屋ももっとおもしろくなるのに。
新聞だってテレビだってもっとおもしろくなるのに。
今は広告にすぐなびいてしまう人が多すぎるから、
だれかが言っていたことを虎の威を借るように自分のこととして言う人が多いから、
ベストセラーばかりが売れて、本屋も図書館もどこに行っても同じ本ばかりになる。
売れないもの置いておくほど余裕ある店なんてほとんどないから、
いい本だったとしてもすぐに返品されてしまう。棚にも並ばずに。

話が飛んでいることは認める。
でも私にとってはつながっている問題なのだ。

あんな切り貼りの辞書が市場のシェア5割なんて嘘だろ?とか。
前半 http://www.ustream.tv/recorded/6132216
後半 http://www.ustream.tv/recorded/6132707

パソコンにイヤホンつないで聞きながら仕事してたのだが。
後半の28分くらいにさしかかると仕事そっちのけになるな。
輪になってフォークダンスしているとこは、なぜだか反射的に目頭が熱くなります。

井上ひさし氏に言及しているところも印象的。
「わたしたちは無傷な別人であるのか」


兄がまだ演劇批評家を名乗っていたころ、
「三月の5日間」が岸田國士賞をとったのをすごく喜んでいたのを覚えている。
面識があったのだろう。あったのだろうレベルでもないかもしれない。
それからずっと経って、やっと舞台を見ることができた。


身体表現の必然性、
歩いているだけなのにバスと言われるとバスに見えてきてしまうことばの強さ、
ゆるい空間に見えるのに注目してしまう緊張感、
丁寧につむがれる時間。
きっと上質だった。
@こまばアゴラ劇場

今回は何回も行けるわけじゃないので1回だけだけども。


「わが星」は円
「スイングバイ」は四角
会場の形もそうだけど、
時間という縦軸がすごく意識された。

そのような具合だったから、
後のほうのパスは
横の広がり、ネットワークみたいなものが感じられて、
涙がたらたらと流れた。

時間に抗っているわけではないけれど、
縦軸のどの断面にもちゃんと詰まっていることがうれしかった。


全体的にワークショップ感があり。
また、にぎやかなのもあってせりふが聞き取りにくいところと、
せりふの最後がどうしても丁寧でなくなってしまうことが気になった。

気になったといえば
遅刻くんと柴さんが似たスタイルなのが気になった。
もひとつついでに言うと
1階にあったお花の「4888」が「柴母」「柴パパ」なのか全然違うのかが気になった。
中村活字さんにお願いする予定。
紙の種類と大きさ、そして文面とそのレイアウトを決めてから来て、
と紙屋さんなどを教えてもらっての出直しスタート。

ウィングドウィール、ハグルマ封筒、
(ハグルマ→ウィングドウィールっていま気づいた~)
クレイン、コンケラー……
というかコットンペーパー探し。

やばいすごい楽しい。

活版の特色は圧がかかっているということではなく。
ではなんだろう。
手触り感? カスレ?
お恥ずかしながら、何にひかれているかわからないのに、
活版活版と思っている。活版活版。
メディアにはいつだってなにだって、編集がつきものじゃないか。

検索性と一覧性という軸で語られることが多いけれど、
本当にその次元の話だろうか。

電子辞書が劣っているわけではなく、
電子辞書というメディア前提に編集された辞書があれば、
話はもっと違っていたと思う。

紙辞書側はその危機によって、
やっと自分がメディアを無意識に選び編集していたことを
気づかされたはずなんだ。
だけど気づいたところで、もうどうしようもないと諦めたんじゃないか。


キーワードは編集。
データでつくることで自分でがんばって守らなくても
コンピュータに記憶させればよくなった。
じゃあその整理可能な情報をどう整理するか、構造化するか。
なにとなにが等価でなにが違うのか、
情報のレベルが違うとしても表現として変える必要があるか、
構造化するのはいいが読者にとってルールが多くなってないか、
どう見せるか!

ただ情報を売っているんじゃない。
編集技術というプロの技、むしろ芸を売っている。
それに関してはウィキペディアとは比較しても意味がない。種類が違う。
電子辞書も、電子辞書をメディアとして扱える編集者がいたら、そして
その機能を十分に生かした編集を経た辞書がつくられるなら、
歓迎すべきことだし、私が二人いたら一人にはそれを担当させたいくらいだ。
それはメディアの誕生を手伝うことだから。

でも私は紙辞書を編集する。
ただ慣れているし、協力者がいることが確実だから。
今のところはそれだけの理由。

電子辞書という器はほんとは違う料理を盛ったほうがいいのに、
ひとまずきれいだから買っちゃって、でもま器としては使えるし、って感じで

だれもたしかにひどく悪いとは思わないんだけど、
なんだかしっくりこないなぁと思ってる。
そんな器にいつかぴったりの料理をのせてあげたいな。

とは思う。けど私には限られた時間しかないから、
紙の、日本語の辞書の編集技術を磨くことにかける。
たぶん数十年はかるくかかるだろうから。
それに、数十年それをやるだけでも価値があると思うから。
伝統的には「たほいや」。
たとえば京都橘大の池田先生が授業で
http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kokugo/zanobunngaku/tahoiya.html

似たところで、テレビ朝日「『ぷっ』すま」の
「あたかもディクショナリー」。
辞書らしい解説を回答し、辞書と合っているキーワードの分だけ得点、という仕組みだったはず。

NACK5でナイトメアがやってる「Jack in the box!」の
「むちゃぶり!! ことわざディクショナリー」。
架空のことわざに辞書的な解説と用例を投稿する。
昨日やってたのは「堪忍袋穴二つ」。

テレビ東京「ピラメキーノ」ではんにゃがやってた
「辞書めっこ」。
辞書の語釈を読み合って相手が笑えば自分が勝ち。

辞書遊びを考えていて、ひとまずメモ。
ナイトメアも初めて知ったし、はんにゃは動いているのを見たことがない。
っていうぐらい芸能関係弱いのだが。
こまばアゴラ劇場。

会社の人が見てないことを祈る。
なぜならすんごく投げ出して来たから。
夕方になって重要な話するなよ~
レスポンスおせーんだよ、井の頭線乗っちゃってるよ、
て、イライラしながら駒場東大前へ。
ナゲット食べながら歩いてアゴラまで。ああ座りたかった。
アゴラに着いてまだ時間あったから、仕事電話。終わってすぐに電源オフ。
そして入って。ほかの客がざわついていてイライラ再来。

観る

よかったよかった投げ出して来て。
最後のクラッカーがよかった。
なにより昨日はアフタートークで端田さんのことばが聞けてよかった。

クリシェの組み合わせ、リミックス文化みたいなの、
自分の世代はそういう世代なんだと思う。
その一つ前はクリシェをわざと使う世代。

ありものを組み合わせるだけだから下等かといったら絶対そうでないと思う。
リミックスしたことによって変わるものはたくさんある。
組み合わせが新たな意味を見せる、それってやっぱりすごいことだよ。
ある意味では普通のことだけども。
「北限のサル」の前の話。
役者は同じ人が出ていても、同じ役の人はいない。
でもセリフが同じのが出てきたりして。
笑うポイントが同じ人が数人いて、あ、先に「北限のサル」観てるなと。
それと、竹越さんが……

この作品のほうが、キーワードとして重い気がするものが多いのだけど、
なぜか軽く感じた。比べれば、の話だけれど。
続けて観たかったが、チケットとったのがギリギリだったために
昨日は「北限のサル」を。今日は「カガクするココロ」を観る予定。

研究室内の学部生と院生の感じとか、やだなと思ってしまう、リアルで。
緊張感がある場面の、会場がしんとする様子はいつもすごいなと思う。
そして今回のこの二人だけになったところで出てくる会話はやっぱりそれかと。
人と人との交渉を端的に表すのかもねと。


ちょうど大江健三郎「水死」を読み終わったあとだったので
うーむと思う。

そいえば「水死」を読み終わったあとだったからか
会場で売っていた「エクス・ポ」第2期ゼロ号のなか、
「新潮」の矢野編集長が「時代の精神」がどうのと話しているところに
反応してしまう。いまの「時代の精神」ってなんだろうと。
日頃、世代論を話すたびにちょっといやがられるわたしとしては。
そういう意味では、束芋が「断面の世代」としたこと、
それをだいたい1970年代生まれをさすとしたこと、
に共感と違和感とを覚えたり。
ゼロ年代が終わって、テン年代が始まり、
年代や世代について語られる機会がなんとなく多いだけ
かもしれないが。