鎌倉殿の13人
 

治承の乱



毎回面白く観ています。

今回は『決戦前夜』。

いわゆる「治承の乱」です。



富士川の合戦では、平 維盛(たいら の これもり)を総大将とする追討軍と武田 信義(たけだ のぶよし)&源頼朝(坂東武者軍)が富士川を挟んで布陣、睨み合いますが... 


 


北条時宗さんのおかげで、平 維盛の追討軍は逃げて行ってしまいます



    

..................

...............

.........






「?」マークが頭に浮かんだら、すぐにググって調べるのがLobyのクセ。

Wikiによれば-(関心のない方はスルーしてください)

 

吾妻鏡によると10月20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。

 

平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『源平盛衰記』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。事実がどのようなものであったかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。

 

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、忠清は撤退を進言した。総大将の維盛もこれに同意し、平家方は総崩れになって逃げ出した。遠江国まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた

 

水鳥のエピソードは、太平の世で戦に不慣れとなっていた平家の軟弱さを示すものとして知られるが、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』はもちろん、『吾妻鏡』の記述は誇張、ないしは虚構で、水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、水鳥の羽音で敵の夜襲を察知し、迎撃の準備ができていなかったので撤退したという見方もある。また、戦力差を考慮して水鳥の羽音とは関係なく撤退を決めていたとの見方もある。

 

この水鳥の羽音に関する各本の異同を一覧にすると以下のようになる。

 

『源平盛衰記』…日付なし、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。

『平家物語』…10月23日、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。

『山槐記』…10月19日、平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。

『吾妻鏡』…10月20日、平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。

『玉葉』…10月18日、羽音の記述はない。開戦前に平家側数百騎の兵が源氏に逃亡したため平家は撤退をした。

『吉記』…日付不明、羽音の記述はない。敵の軍勢が多いのをみて撤退した。撤退時に敵からの放火と疑われる火災が起こり、それにより混乱があった。



と、水鳥云々の真相が浮かび上がって来ます。

な~るほど。

そりゃ兵の数が不足すれば、平 維盛でなくとも逃げ出しますよね。ウンウン。

それにしても、平家はこの時点で、すでに“戦い方を知らない貴族武家”になってしまっていたようです。


 

o0600025713458935138

 



ジャジャジャジャーン義経登場


義経がいよいよ本格的に登場しましたね。

登場のしかたがコミカル「(頼朝の)弟という証拠は、顔(がそっくり)ということです!」

には笑っちゃいましたけど

 


三谷 幸喜さん、本作ではかなりコミカル度注入しているようです。
 


 

坂東彌十郎sann



それにしても、北条時政役をやっておられる坂東彌十郎さん。

さすが(と言っては失礼ですが)、すごくいい演技をされていますね。

こういう素晴らしい脇役がドラマを盛り立てるのですね。



 

 usagi_wave.jpg

ご訪問有難うございます

lobo.gif

 

usagi_wave.jpg