夜。
居酒屋のチラシ配りや、キャバクラの客引きや、何の客引きだか分からない客引きや、その他諸々の雑多な職業の人が、勤め人の財布をアテにする駅前の雑踏。
実は駅前は安全なのだ。眠る事無く、自分の欲望ではないことにエネルギーを注がねばならない人々が集う夜の駅前。
そのエネルギーは「生きるための熱気」だ。そこに危険があっては、明日の糧に困る。
放埓に見せておきながら、実はとても理性的であり、理路整然としている。放埓は計算された演出なのだ。我々はそれに釣られて財布の紐を緩める。
夜の駅前は安全なんだ。
むしろ、他意の無い住宅街の方が危ない。
他意が無いからこそ欲望が剥き出しになる。
見えるぞ見えるぞ!あの曲がり角の向こうに ――――!
夏のある夜、C先輩が両国フォークロアセンターでライブをすると聞き、音楽仲間の友人と二人して聴きに行った。C先輩は非常に独特な歌手なので、客層も独特であり、それを見るのも楽しみの一つだった。
畳の上に車座に座り、その真ん中でギターを爪弾き歌う先輩。皆がじっくりと聴き入った。
ひとしきりライブが終わり、C先輩はファンに囲まれながら酒を飲んだ。
「熱狂的なファン」と思しき男性客が、C先輩にやたら話し掛け、その矢継ぎ早の語り口調に先輩はゆっくり酒も飲めず辟易としていた。そんな雰囲気もライブならではと思いながら、俺たちも酒を飲み、楽しみ、時間が過ぎるのを忘れた。
いつしか終電の時間が迫り、俺たちは暗い夜道を両国駅に走った。
ギリギリのところで最終電車に間に合った。
気が付くと、先ほどの「やたら話し掛ける男性ファン」も同じ電車だった。
我々は三人で並んで席に座り、酔いも手伝ってか、先ほどの興奮を語り合った。男性ファンは、電車の中でも ものすごい勢いで語りまくった。
乗り換えの駅の構内で、男性ファンは持っていたカバンから何やらシールを取り出し、歩きがてら等間隔に壁に貼っていた。
なんだろうと思っていたら、友人が耳打ちした。
この人、過激派の人だよ。
どうやらそのシールは、ある有名な過激派のビラの様なものだったらしい。
友人はその方面に明るく、この人がどう言う素性の人なのかをそのシールで察知したのだ。
ライブの時にはそんな素振りは見せなかったのに、酔いが手伝ったせいもあって、普段は隠している別の顔を覗かせたのだろうか。
乗り換えた電車の冷房は、乗車している客が少ないせいか、とても良く効いていた。
冷房の効き以上に冷え冷えと感じられた。
先ほどまでの楽しい会話は無くなった。男性ファンは同様に喋りつづけていたが、俺たちはその素顔を知ってしまったからこそ沈黙した。
そして俺が降りる駅になり、友人と男性ファン改め、過激派を残して、ひとり電車を後にした。
ほっとした。
怖かったのだ。
過激派の人がどんな行動をするのか俺には分からない。でも、少なくとも事件性のある何かしらに関与しているふうの人だったので、そんな人と一緒に居る事が怖かったのだ。
友人には悪いな、と思った。俺が抜けて二人きりの電車は居心地が悪いだろう。でもしょうがない、俺の降りる駅は二人の降りる駅よりも手前にあるのだから。
電車から降りると、湿度の高いむっとした空気に包まれた。
駅前は終電の時間だと言うのに賑わっていた。様々な客引きが声を掛けてきた。しつこいと思いながらも、商売以外に他意の無い彼らの存在は頼もしかった。
駅前には「他人」しか存在しない。すべて「他人」なんだ。だからこそ、漠然とした共同意識みたいなものが存在する。
駅前を通り抜け、街路灯のあかりだけがぼうっと灯る暗い住宅街に入ったところから、その共同意識の庇護は消えてなくなる様な気がした。
俺は夜一時を過ぎた静かな住宅街をスクーターで家に向かった。
前を見ても後ろを見ても誰も居ない。
もう少しで家に辿り付く少し手前で、
長い髪をなびかせた上半身裸の大男が
左の家と家の隙間から飛び出してきた。
暴漢だ。
百鬼夜行みたいな風体のやつだった。
ああ、あるんだなぁ、やっぱり夏だなぁ、と、その時は妙に落ち着いていられた。何故ならば、スクーターで結構なスピードをだしていたからだ。このタイミングなら彼に捕まる前にすり抜けられる、そう確信していたので慌てる事はなかった。
妙な風体の男をやり過ごし、高鳴る動悸を抑えるために一周りして戻る事にした。
さすがにもう居ないだろう、と思いながら、先ほど男が飛び出してきたあたりを注意しつつ家に近付いた。
男が右から飛び出してきた。これは意外だった。
まだ居たのか!
もの凄く怖い!
俺は大声をあげ、とっさに男を蹴った。
男は大声に驚いたのか、それとも蹴られた事に驚いたのか、そのまま走り去った。
男を蹴った勢いで俺はスクーターから振り落とされた。
俺の大声とスクーターがアスファルトを削る音を聞きつけた付近の住民が玄関から出てきた。
たすけてください!
ヘンな奴に襲われました!
俺はショックでアスファルトに寝そべったまま動けなかった。
玄関から出てきた人は、俺を不審者だと思ったのか、一目散に家に逃げ帰り、鍵を閉めた。
少し先に転がっているスクーターのアイドリングの音だけが闇に響いていた。