世の中にさまざまな優劣の基準があるが、思うに、優劣を決めたいという思惑があってこそ、優劣という考え方が産まれるのであって、そもそも優劣という概念の実体など、この世に存在しないものなのだ。
幻想なんだ。便利な幻想。
少なくとも、人類が誕生し、社会を形成し、支配するものされるものの歴史が無かったら、存在しなかった概念だ。
劣だと決めつけたものが、実は人類の宝かもわからないよね?わからないのに捨ててしまうのは浅はかだし、何といっても「もったいない」んじゃないか、でも、それを疑うことなく捨ててしまうのは、愚かしいことなので、劣を捨てる人=劣、ってことでいいんじゃないかな、とか、俺は、思ったりする。
人は今も、これからも、何かを比べ、優劣を決定し、劣を排除しようと躍起になるに違いないんだ。
比べる内容なんて、けっこうお粗末な基準だったりするよ。
今、劣だと思っても、ひょっとしたら評価が変わるかもしれないじゃないか。人って生き物は、大勢に流されやすいという弱さを持っているから、気をつけなくっちゃね。
そうだな、たとえばゴッホ。
あの人、もうちょっとコミュニケーション能力があったら、生前、劣と判断されなかったかもわからない。孤独で悲惨な死を迎えることなく、売れっ子になれたかもわからない。
それとは対照的なルノアール。
彼は成功した。
駆け出しのころは「腐乱死体」だの、散々ないわれ方をしていたらしいんだ。でも、ゴッホに比べてコミュニケーション力があったから、生前に一時代を築きあげられたのかもね。
些細なことさ。
二人の才能の間には、当然、優劣なんて無い。ゴッホはゴッホだし、ルノアールはルノアールなんだ。
でも、彼らの周囲に居た人たちは、ゴッホなりルノアールなりを吟味し、優秀な作家なのか、アホなのかを「断罪」した。ゴッホは死に、ルノアールはたくさんの子孫に恵まれた。
俺からすれば、この理不尽も運=運も才能のうち、なのかな、なんて考える。
ああ、願わくば、芸術に優劣をつけることなく、作品のパッションと共鳴出来る優秀な鑑賞家にあふれた世の中でありますように。
どんなにくっだらないと思われる表現にも、どんなにチープな仕掛けでも、それらには魂が宿っていることを忘れませんように。
簡単に優劣の判断を下すようなてんぷら評論家が絶滅しますように。