
「東京行きの新幹線で、禁煙車両一枚。一番早いのは?」
「49分発ののぞみ16号ですが、喫煙車両しか空きがありません」
「- そうですか。なら、その次に早い禁煙車両は?」
「本日分の禁煙車両、全てご予約済みです」
「- わかりました。ならもう、16号の喫煙車両でも何でもいいです」
同じ特急料金を払うのに、タバコの匂いにまみれなければならない不条理よ。
盆の新幹線、禁煙車両は何日も前から満員。少し前までは、真っ先に喫煙車両から埋まったものだが、時流なのか、今では皆が喫煙車両を避ける。
盆の時期ですら空きがあるくらいだ。
今や喫煙車両は、不本意ながら選択せざるを得ない対象に成り果てた。
愛煙家は、専用車両に座っているにもかかわらず、場違いな嫌煙家のために、遠慮しながら喫煙せねばならなくなった。
喫煙そのものについては、今も昔も変わることはない。変わったのは人々の意識だ。
人々の意識を変えたのが禁煙キャンペーンのコマーシャルなら、それは一種のプロパガンダではなかろうか。
コマーシャルは功を奏し、喫煙者は大幅に減った。でも、重篤な症状を発症する人間は増えている。
極端な馬鹿話かも知れないが、結果だけ見れば、喫煙者の多い世の中のほうが、むしろ健康な世の中だったと言えなくもない。
嗜好品をせん滅せんとする世界の警察官、アメリカ・ピューリタンの、圧倒的勝利である。
これから子供たちが大きくなって、世の中を動かす様になる頃、全ての列車から喫煙車両が消えているだろう。
いや、むしろタバコそのものが無くなっているだろう。
タバコにまつわる文化も、民俗も、最期の一服の煙と共に夢散するのである。
消えてゆくのがタバコだけならいいが、と、未来を危惧するのは、自分だけだろうか。