コミンと出会ってもうかれこれ20数年。
その当時のバリ島は飛行場も改装前で、タラップを降りたら入国審査までは滑走路を歩いた。
レギャンビーチ沿いはまだ椰子の木が生い茂る「古き良きバリ」で、大きなホテルなど一つも無かった。 初めて出会った頃のコミンはまだ十代で、日本語が不得意でスケベで悪ガキでサーフィンばかりやっていた。
彼と出会ったのはレギャンの安ホテルで、コミンの兄がそのホテルのオーナーだった。
彼はそこで下働きをしていた。下働きと言っても、なんとなくホテルのバーに居て、客相手にお喋りをするだけの気楽な稼業だった。
ろくに日本語も喋れないにもかかわらず、顔見知りの日本人と見ると一緒に付いてまわり遊びに出掛けた。例えば我々がビーチでナンパしてるのを見つけると、遠巻きに「ヤリタイヨー、ヤリタイヨー。」と叫んでいた。
夜になってバーで飲んでいると、いつの間にか我々のすぐそばの椅子に座り「ニホンゴデ、コレ、ナンテイウノ?」と連日の質問攻めだった。
コミンは日本語習得のために、日本人旅行者の多い兄の経営するホテルで働いていた。
人間は歳を取ると若い頃にやり残した事をあれこれと後悔する。50歳になって「ああ、40のうちにこんな事をやっておけば良かった」と後悔する。当然、40の人は「30の頃にこんな事をやっておけば良かった」と思うだろうし、30を迎えようという人は「20代のうちにこれをやっておけばよかった」と反省する事もあるだろう。だから、40歳の今を50歳と想定して、50になった頃 後悔しない様に今出来る事をするべきだ、と達観したふうの人は言う。
後悔しないようにだって?そンな事は将来になってみなけりゃ分からない。きたる将来には是非後悔だらけの生活を送りたい、と思う人間など存在しない。いつだってハピーに過ごして居たいに決まっている。若い頃の苦労は買ってでもしろと言うが、出来れば苦労なんてしたくはないんだ。今すぐ幸せになりたいのだ。人間なんて単純だから、あー、宝くじ当たんないかなぁ、と思っている様な者ばかりである。世の中を見渡せば、若くしてリタイアメントを決め、悠悠自適に暮らしている人間だってたくさん居るじゃないか、要するに、そう言う人に憧れるんだ。
ここまで読むと、今回のテーマが「将来後悔せず暮らせる様にリッチになるためのテクニック」を語るかの様に見えるが、残念ながらそうではない。その様な事を語れるほど経験豊富でもないし、今ここで俺が書くよりも、もっとふさわしい人がいっぱい居ると思う。
例えば、悠々自適な人たちだって、人には言えない後悔の念を抱いていたりするのだと思う。該当者に聞いてみなければ分からないが、もしもあるとすれば「特殊能力をもっと身に付けておけば良かった」という事じゃないだろうか。
人生を彩るのに必要な特殊能力は語学だ。それは商売につながる以前に、人対人のコミュニケーションに無くてはならない能力だから。
当然成功者と言われる人の中には語学堪能な人が多いと思う。でもそれはビジネスに必要な言葉であって、大抵は英語だろう。
例えば将来、アフリカに暮らしたいと思えば、スワヒリ語を習得した方がいいに決まってるし、モルディブに家が欲しいとなればディベヒ語を習得した方が暮らしやすい。金儲け以前に、人としての生活を成り立たせるには、コミュニケーション能力に長けている必要がある。その第一歩が言語なんだ。
まだ覚えの良い若いうちに言語能力を高めて、いざリタイア生活を楽しむときに縦横無尽に活躍できたら、それはとても理想的な事だと思う。
お金があっても周囲とコミュニケーションが取れなければ宝の持ち腐れ、孤独で居るしかない。
だからこそ、まず普段からなるべく英語に触れて、英語力を高めたいと思ったりする。とりあえず英語が出来れば世界中の大体の地域の人とコミュニケーションが取れるからだ。
コミンの英語は既に完璧だった。それは、彼の家がいわゆる名士の家柄で、家庭教師を雇っていたからだと聞いた。それにバリ島は観光産業の島である。世界中のいろんな国からいろんな人がお金を使いにやってくる。観光客相手にたっぷり稼ぐには、観光客に気に入られなければならない。その為には、今や世界語とも言える英語が必須となる。
コミンの家は兄弟がたくさんあり、それぞれが皆自分で何かしらの商売をしていた。そしてその商売相手は皆外国人だ。なのでコミンの兄弟は全員流暢な英語を話した。
だから当然、コミンの英語も素晴らしい。
では何故、彼は日本語を習得したいと思ったのか。
「ソレハネ、ニホンジン、オカネアルカラネ」
商売相手として日本人を選んだ。その為には日本語が出来た方が効率がいい。彼は日本人相手の貿易をやりたいと言っていた。
バリ島の言語はバリ語である。しかし、1945年にインドネシアという国が出来てから、インドネシア政府は共通語をマレー語を基にしたインドネシア語と定めた。島ごとに違う言語をもつインドネシアは、全土にインドネシア語を母国語とするべく教育に力を入れた。当然バリ島もインドネシアの一部であるので、公用語はインドネシア語だ。しかし、地元の人間に聞くと、普段の会話はバリ語だという。インドネシアの他の島から来た人とはインドネシア語で話すが、地元では飽くまでバリ語。インドネシア人は自国に居ながらにしてバイリンガルなのだ。
そして観光に従事する人は英語、人によってはフランス語、イタリア語、スペイン語などを話す人も居る。
外国人に多く接する機会があるからこそ、たくさんの言語を覚えざるを得ない。
それにコミンはヒンドゥ教の修行もしている。ヒンドゥ寺院で読まれる経は「カウィ語」という言語で書かれており、つまりコミンはバリ語、カウィ語、インドネシア語、英語、日本語が出来るのだ。
それだけの種類の言葉を操る事が出来るなら、仕事うんぬん以前にまず「面白い」だろうと思う。人と会うのが楽しくてしょうがないだろうと思う。それがあったからこそコミンにはたくさんの友人がいる。
通い始めて20数年、バリもすっかり変わった。クタビーチやレギャンビーチには椰子の木の代わりに大きなホテルが立ち並んだ。
飛行場は近代的な建物に代わった。
初めて訪れたころに赤ちゃんだった女の子が、嫁いで行った。
この20年、俺は何をやっていたんだろう。嫁に行ったバリの女の子よりもバリを知っていても可笑しくない筈なのに、バリ語はおろかインドネシア語も出来ない。
子供だって5歳、6歳になればイッチョ前に話ぐらいはする。それが俺には出来ていないのだ。この20年間の後悔は「インドネシア語をちゃんと習得出来ていない」って事だ。
コミンはこの20年で日常会話はおろかビジネス会話としての日本語をも、ほぼ完璧にマスターした。イントネーションもバッチリで、少々難しい単語だって我々よりも上手く使いこなす。たまに彼から電話が掛かってくると、バリ島からの電話だということに気が付かないくらいだ。先日改めて『何故日本語を勉強したのか』訊いてみた。
すると彼曰く「日本人の女の子が好きなんだよね。だから奥さんをもらうなら日本人かな、って決めてたの。まあ、ビジネスってのも嘘じゃないんだけど、あのころは上手く言えなかったんだ。でも思った様にいかないね、結局ボクはバリバリのバリ人と結婚したもんね。でも日本人大好きだよ。だってボク、日本人の血が1/4入ってるから。実はクォーターなんだ」
初耳だった。