娘が交通事故に遭って病院に担ぎ込まれたと聞いたのは、築35年鉄骨造のアパートの解体作業をしていた昼下がりの事だった。
現場監督は、今すぐ行ってきなさいと指示を出し、吾郎は溶接用の防護眼鏡と手袋を外すと、汚れた作業着を着替える事なく、呼ばれたタクシーに乗って隣町の病院に直行した。
何が何だか解らないまま、病院の受付で娘の名前を告げると、受け付けの女性は待っていたとばかり「お父様ですね?」とカウンターから出て、早足で彼を集中治療室へと案内した。



処置を施された娘は顔全体を包帯で覆われ、口の部分にはシュノーケルの様なものが刺さっており、その中を空気が行ったり来たりするのか、機械的な呼気吸気のシューシューという音が室内に大きく響いていた。
吾郎はその姿を見てもピンと来なかった。真っ白な包帯で頭の先まですっぽりと覆われたその姿は現実味が無く、悪い冗談みたいに見えた。顔かたちはおろか、髪型まで見ることが出来ないなら娘なのか誰なのか判別する事は不可能だ。包帯を解けば、その下には俺の知らない赤の他人の顔があるのではないか、と思えてならなかった。そう考えると、きちんと確かめもせずここに居るのが愚かしい事の様に思われた。
だが、血の付いた手術服を着た看護婦が思惑を覆す様に、横たわっている人物が吾郎の娘である事を示す証拠として、バッグに入った運転免許証や携帯電話を見せた。
出来るだけのことはしました、私たちが看ていますから、お父様はご連絡差し上げるまでご自宅で待機して頂けますでしょうか。高齢の看護婦は申し訳無さそうな表情で、だが、吾郎に無駄な心配は掛けるまいとばかり冷静に言った。



あのグルグル巻きになっているのが娘だとして、生きて還って来る保証がどれほどあるのだろうか、死んでしまったら・・・
自宅待機は変化の無いまま6時間を経過し、一向に連絡は入らなかった。テレビを見る気力もなく、吾郎は部屋の中で仰向けに横になり、天井を見上げていた。
あいつが死んだら・・・娘の給料がある程度あてになるからこうやって暮らせるが、既に60を超えた俺が一人で生きていけるのか。 夕刻を過ぎ、吾郎はいつもの習慣で焼酎を生のまま茶碗に注いで、飲んだ。
飲み方はいつものペースよりも随分早かった。



気付いたのは、ところも知らぬスナックの店内だった。
隣の止まり木にはママと思しき中年女性が、カウンターに片肘をついて携帯をいじっていた。
「あれ?俺、なんでここに居るの?」
携帯の画面から目を離さず、隣に座っているママと思しき女性は「あ、おはようさん。よく寝てたね」と言ったきり携帯に熱中し続けた。
「何時?」
「2時だよ」
「え!2時!」
「もう閉店だよ、あんた一杯しか飲んでないから2000円ね」
電話貸してくれ、と言って彼女の携帯をひったくろうとした。何すんだよ人の携帯勝手に見るんじゃないよ!女性は大声を出した。
「病院に・・・病院に・・・」
その時はじめて、吾郎は病院の名前も電話番号も知らないことに気が付いた。自宅待機せよと言われて・・・今どこに居るのかも分からない。
俺はバカだ。
「タクシー呼んでくれ」
「この時間じゃ来てくれっこないだろ。駅まで歩きな」
吾郎は会計を済ませて、一刻も早く病院に行かなければならなかったが、財布の中はどう見ても1500円しか無かった。
「すまないママ、ツケといてくれ」
「いちげんさんにツケする店がどこにあるのよ、ちゃんと払ってよ」
「1500円しか無いんだ」
女性の怪訝な顔付きより、娘の容態のほうが一大事で、その事ばかりが頭のなかを駆け巡り、五朗は滝の様な冷や汗を、頭全体から流した。
「金も無いのによく店で飲もうなんて思うねぇ。1500円におまけするから帰って頂戴」



どうすればいいんだ・・・深酒で朦朧として真っ直ぐ歩くことさえままならないその頭で、一生懸命考えた。
今時の自転車の鍵は堅固に出来ており、何の道具も持ち合わせない吾郎には自転車さえ盗めない。
せめて走ろう。歩くよりはましだ。
街道筋を走るものの、作業着のニッカズボンは走るのに適した形状をしていない。それどころか、吾郎の足に絡みつき、彼の行く手を阻むのだ。
行かなければ、でも何処へ・・・
もつれ加減だった足はついに交差し、吾郎は頭から転倒した。
再び意識が途絶えた。



病院のベッドで意識を回復した吾郎は、心配そうに覗き込む娘を見た。
「ああ!お父さん!良かった!」
そう言うと娘は、持っていたハンカチで顔を覆って泣きだした。
良かった?それは俺のセリフだろ、と言いたかったのだが、気だるさと痛みで言葉にすることは出来なかった。
吾郎には何が現実だか、すっかり分からなくなっていた。
娘は涙に濡れたぐしゃぐしゃな顔で「お父さんのバカ!お酒、これからはほどほどにしてね。約束してね。あたし、お嫁に行かない事にしたよ、お父さんとずっと一緒に居る!」と言った。でもそれは、誰かが娘のふりをして、上手な芝居をしているとしか思えなかった。



娘と間違われていたのは、置き引きの女だった。
逃亡の際事故に遭い、結局意識が戻らぬまま死んだ。
置き引きには身元を特定するものが何も無かった。



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