梅雨の中休みといわれる一瞬が毎年の梅雨半ばにありがちだが、たぶんそれが今時期なのだ。こうなると必ず「このまま梅雨明けかな」などと言う人もいる。だけどこの後、怒涛の大雨が続いたりするのも例年のことだ。梅雨明けの分かりやすい感覚は、じりじりと焼ける太陽だろう。この晴れ間、照りつける太陽にそれはまだ感じられない。子供たちが夏休みに入る頃まで、俺たちは梅雨という季節を感じ続けるのだ。
あじさゐの花が咲いている。
あじさゐ、と表記すると、なんだか萩原朔太郎みたいで、なつかしい綿菓子の様で胸の奥がくすぐったい。
桜は期待されて咲くが、あじさゐはいつの間にかそっと咲く。
そっと咲いて時と共に色を変化させ、陰鬱な曇り空にパステルカラーを輝かせる。あじさゐのパステルカラーは、よく晴れた日に見るよりも陰鬱な梅雨空に見たほうが美しい。
いつでもどこでも適材適所、場面場面に応じて最上の美がある。それに気付くか付かないかで、俺たちの限られた時間、満たされるのか満たされないのかが決まってしまう。
俺は梅雨時のあじさゐが好きだ。夏が終わり冬が来て、あじさゐがカラッカラの棒みたいに干からびても、いずれ来る梅雨時期のパステルカラーを期待している。
季節は巡り、今があじさゐの旬で、俺は嬉しくて涙が出る。
あじさゐの花が咲いている。
あじさゐ、と表記すると、なんだか萩原朔太郎みたいで、なつかしい綿菓子の様で胸の奥がくすぐったい。
桜は期待されて咲くが、あじさゐはいつの間にかそっと咲く。
そっと咲いて時と共に色を変化させ、陰鬱な曇り空にパステルカラーを輝かせる。あじさゐのパステルカラーは、よく晴れた日に見るよりも陰鬱な梅雨空に見たほうが美しい。
いつでもどこでも適材適所、場面場面に応じて最上の美がある。それに気付くか付かないかで、俺たちの限られた時間、満たされるのか満たされないのかが決まってしまう。
俺は梅雨時のあじさゐが好きだ。夏が終わり冬が来て、あじさゐがカラッカラの棒みたいに干からびても、いずれ来る梅雨時期のパステルカラーを期待している。
季節は巡り、今があじさゐの旬で、俺は嬉しくて涙が出る。