一を聞いて十を為す人になりたいと思えども、完璧ということはなかなか為し得るものではない。そしてそんな不完全燃焼の中、いずれ見ていろ、いつか必ず為す!とばかり更なる高みを求めて、ひとは己の道を追求する、人生という学習の場は、そんな理想を中核とした壮大なドラマである、理想を掲げて己の生業にいそしめば、自分の歩んできた道に満足出来る筈だ、そう思って生きてきた。
でもそれは一般的には現実不可能の理想であり、必ずしも普遍的な志とは違う、ということを、隣のデスクでのらりくらりと仕事するYを見るたびに思い知らされる。
精神ひとたび至れば何事か為さざらん、はYの好きな言葉だ。でもそれは、必ずしもYのポリシーとは違っていた。歴史好きなYの趣味の雑学であり、いわばショーケースに並ぶ骨董品と等しく、観賞用の言葉だ。茶を供するのに用いられる事も無く、ショーケースの中で埃をかぶるばかりの青磁の茶碗。良い茶碗も使わなければ生まれてきた甲斐が無い。
やらなければいけない仕事、俺たちに課せられた使命を、Yはいとも簡単に忘却し、ギリギリになってからはたと気付き、冷や汗をかきながらやっつけ仕事、その結果、顧客のリクエストから大きく外れた成果とも呼べない成果を残し、周囲の人々に余計な手間を取らせる。精神はひとたびも至らないばかりか、そもそもの精神すら無い。
そんなYの様な人物は世の中にたくさん存在する。
研鑚、ということ自体がめんどくさいのだろう。
ああ、めんどくさいめんどくさい。
例えば、インターネットの占いを見まくって自分に都合の良いところだけを信じ、悪いところは忘れる、そんなのだろう。
その「都合の悪いところ」に、本来有用な貴重な宝が、貴重な青磁の茶碗が眠っているのに、それに気付かず損をする人の多いこと。大抵が「めんどくさい」という理由で物事をほったらかしにしておく。