妻は幼少の頃から山好きな両親に育て方られ、ちょっとした山など苦もなく登ってしまう。
遠く岡山から嫁いで、そんな彼女はまだ一度も関東の山と対峙していなかった。
ある日彼女が「高尾山に登りたい」と言うものだから、関東に住まう先輩としては、彼女をリードすべく、高尾山を案内する義務があった。
とは言うもの、俺は特段山登りの達人という訳でもないので、俺が知る高尾山との付き合い方を、ただ粛々と伝授するしかなかった。
つまり、人は経験したことしか出来ない。俺は自分が歩いた道しか知らないのだ。
だが、いざ歩きだしてみると、山とはこんなに傾斜のあるものだったかと、運動不足の我が身を呪うことになった。数十メートルも行かぬうちに息はあがり、滝の様な汗が噴き出したのだ。
「最初から飛ばすと、後がおえんよ」
涼やかな岡山弁が、俺の後ろ5歩くらいの位置から聞こえた。
息が上がっているせいか、それとも標高のせいか、その囁きは随分遠くから聞こえる様な気がした。
かつての俺なら、高尾山ほどの山など駆け足で登ってみせたものだが、今や高尾山初心者の妻にたしなめられる始末。
一時間後、俺たちは頂上に到着した。
今回の登山とも呼べない登山で、打ちのめされ、汗まみれの体たらくな俺は、いくつかの大切な教訓を学んだ。
飛ばし過ぎない事。
過去を過信しない事。
上を見るな、足元の一歩一歩を確認して踏みしめて歩け、そうすればいつの間にか頂上に到着できる事。
これらは、登山中妻に囁かれた言葉だ。
頂上にて、薄く雪化粧した丹沢の峰々を眺めながら、妻に生活の全てを預けた事を頼もしく思った。
妻は汗を拭いつつ、持参したミカンと魔法瓶のお茶をリュックサックから取り出していた。