バリの闇は全ての灯りを呑み込む勢い。
熱帯のものは何でも強い。例えば、リーフブレイクで作った傷口に巣食う悪い細菌の増殖するさまに似ている。バリの闇の強さとは、例えば、オレンジ色のアーク灯が街道筋を赤く染めていても、決して明るいとは感じさせない。その強力な闇の中、コミンのランドクルーザーはハイビームで対抗する。対抗するが、ハイビームの強力な光をもってしても、先に続く闇は全ての光を呑み込んでしまう。
所も分からぬ村を幾つもすり抜けた。カーラジオのFMから聞こえてくるインドネシア語は、語尾に無声音を伴って妖艶だった。途中、神様に供える線香とお供え物を買わなければいけなかったので、コミンに任せるまま、どこだかさっぱり分からない村のナイトマーケットに立ち寄った。車を降りると、インドネシア特産の天然ガスの臭い、ココナッツオイルの焼ける匂いが混濁した、心地良く淀んだ空気を感じた。
「あのサ、せっかくだから屋台で何か食べてから行こう」
コミンは意気揚揚としていた。
先生との約束の時間は午後7時。現在時間は午後7時半だった。
「時間大丈夫?」
串焼き屋の店主に挨拶をしていたので、どうやら俺の言葉はコミンに届いていなかった。
改めて「先生の家まで、あと何分?」と問い質すと、もうすぐだよ、と一蹴され、たぶん顔見知りなのだろう、屋台の親父にはバリ語で何か特別なものを注文している様だった。
「時間、大丈夫だから、スープを食べていこう。魚の出汁にヤギの肉を煮込んだカレースープだけど、めちゃくちゃ美味いよ」
串焼き屋の店主は本来串焼きを売るのが生業なのだが、片手間にスープを作っているのは「生きるため」だ。
これが評判で、近々「カレースープ屋」に転身するのだと言う。
「スープが出来上がるまで、線香とお供え物を買ってくる」
一人残された俺は、店主がニコニコしているのに付き合わなければならなかった。
― アパ・カバール?(元気?)
バイクバイク、テレマカシ。(上々です。ありがとう)
― アンダスカ マサカン インドネシア?(インドネシアの食べ物、好き?)
インドネシアの「ア」が、無声音を伴って妖艶だった。
ヤー、サヤスカ マサカン インドネシア。パリンスカ、ミ・ジャカルタ。(うん、インドネシアの食べ物好きだよ。特にミ・ジャカルタがね)
俺も真似をして「ア」に無声音を混ぜた。
― ビチャラバハサインドネシアバグ―ス。(インドネシア語しゃべるの上手いねー)
アンダジュガヤ。(あんたもね)
店主は笑った。俺も笑った。ランプの光は弱々しかったが、その灯りの下、本来なら何千キロを隔てた生活者が、くだらない話で盛り上がっていた。
スープが出来上がるタイミングでコミンが帰ってきた。両手に抱えきれない位の線香とお供え物。いざ、スープを食べようとした瞬間、コミンの携帯が鳴った。彼はインドネシア語とバリ語を織り交ぜながら、電話の主と語り合っていた。時間にして10分強。せっかくのスープが冷めてしまったが、それとは別に、コミンのテーブルには大量の串焼きが用意された。
「ここのサテ、地鶏ね。美味しいんだ」
― いつ注文したの?
― なんでそんなに食べるの?
ボクの分と、死んだおばあさんの分。おばあさん、サテが食べたいって。
そりゃ、おばあさんは大切だ。俺たちが食いたいものを、先回りして準備するのは、大抵おばあさんだからだ。例えば俺のおばあさんは今94歳だが、そんな彼女はいまだに焼肉屋に誘ってくれる。自分はそれほど食べられないのに、あえて焼肉屋に入るのは「孫の為」なのだろう。
きっと孫は焼肉が好きだから。
たくさん食べてもらおう。
「電話、誰?」
「先生。あなたは約束の時間に何故サテを食べているんですか?って怒られたよ」