石数寄人生36年、欲しい石があれば石材店にも行った俺だが、最近は便利になったので石材店に行く事は少なくなった。
昔は石を買うにも結構苦労したものだ。今ではどんな地域に行っても石を買う事が出来る。
中にはチェーン展開している半貴石専門店舗もあり、ジュエリー・ツツミを追い越せとばかりの勢いだ。ダイヤモンド輸入量日本一のツツミを半貴で追い越せる筈も無いだろうが。
一億総パワーストーンマニアの様相を呈している。
街行く人の腕には、かなり高い確率でビーズが巻かれ、胸元にはデザインされた石のネックレスがぶら下がっている。
数年前には見られなかった光景だ。
商売ッ気たっぷりの石商人は、あれやこれやの手段で自分達の商品に付加価値を付ける。
ひところのデ・ビアスの様に。
とりわけ俺をうんざりさせるのが「石の浄化」とやらだ。
アレは一種の霊感商法である。
悪徳印鑑商売と同じだ。
買い手自身に儀式をさせて、自分達の商品をありがたがらせる、一種の催眠商法である。
続ければ続けるほど買い手に強迫観念を植え付ける。それがないとあたかも災難が降りかかるか如く宣伝する。
あたかも悪霊に見舞われるかの如く脅迫する。
特殊なおまじないさえ唱えていれば現世利益がありますよ、と説く新興宗教と同じだ。
そのうち壺を買わされる。
おまじないが日常になってしまえば、壺だってありがたく購入するだろう。
「物」は全て、等しくパワーを持っている。
それが石であれ、石鹸であれ、iPodであれ、テーブルであれ、自動車であれ、コーヒーカップであれ、時計であれ、包丁であれ、布団であれ、テレビであれ、コートであれ、恋愛小説であれ、パソコンであれ、アレであれコレであれ。
石だけが特別なのではなく、万物にパワーは宿っている。
神社庁が「ネット上に神霊は存在しない」と発表したが、そんなことはない、ネットにだってパワーは存在する。
それはヒンドゥではプラーナと呼ばれ、仏教では霊性と呼ばれ、老荘思想では氣と呼ばれ、神道では八百万の神とされ、ユダヤ教、マホメッド教、キリスト教では天使とされ、「科学」という宗教ではエネルギーと呼ばれる。
もしも浄化が必要なら、身の回りのもの全てを浄化しなければならない。
バリ島に行くと、日によっては鉄で出来たものに感謝する日であったり、書物に感謝する日であったり、電化製品に感謝する日であったりと、物に感謝し捧げ物をする習慣がある。
例えば、バイクに感謝する日にはバイクにお供え物をして、その日一日はバイクに乗らない。
書物に感謝する日は本にお供え物をして、その日一日は読み書きをしない、など。
事物は感謝の気持ちから始まる、それがバリの人々の信仰である。
そんなバリの人々は石が大好きだ。
石のひとつひとつに魂があり、自分にとって善い事をもたらしてくれる、と考える。
だから石の喜ぶ事をする。
でも、決して「石を浄化」などとは考えない。
その石の特性は、石が誕生したときからの特性であり、清めようとどうしようと変わるものではない、と考えるからだ。
なので、石は好きだが、その石が「自分の石」かどうかは慎重に考える。
自分に必要であり、かつ、自分に合っている石のみ集める。
「この石は○○にいいから」とヘンな理由を付けて闇雲に石を集めたりなどはしないのだ。
そして、ひとたび自分のもとにやってきた石は、感謝の気持ちを以ってもてなす。
それは石に対する礼の様に見えるが、巡り巡って、結局は自分の心のためなのだ。
ありがとう、という気持ちを認識するための行為なのである。
俺は石を求めても「浄化」なんてしない。
石は何万年、いや、億年の月日を越えて俺のもとにやって来るのだ。
億年って何だよ、今どき小学生だって言わない。
それが、たかだか40年ちょっと人生を歩んだ若輩者の俺如きが、何をしても焼け石に水である。
億年に対抗出来るか?
だから、おもてなしをする。
敬意を以っておもてなしをする。
宇宙の中では大先輩なのだから、それは当然の事ではないか。
決して「このコ」なんて気安く呼びかけたりはしない。
飽くまで「おもてなし」なのだ。「浄化」などではない。
バリ島のお坊さんに抽出してもらった各種のサンダルオイルを塗っておもてなしをする。
それ以外のことは何もしない。
もしも浄化がしたいのなら、石だけではなく全てに浄化の手を差し伸べるのがいい。
だから、毎日しっかりとお掃除をするのだ。
石を浄化するより何倍も効果がありそうだ。
どんなことにも感謝の気持ちを忘れずに、美化を心掛ければ最高じゃないか。
昔は石を買うにも結構苦労したものだ。今ではどんな地域に行っても石を買う事が出来る。
中にはチェーン展開している半貴石専門店舗もあり、ジュエリー・ツツミを追い越せとばかりの勢いだ。ダイヤモンド輸入量日本一のツツミを半貴で追い越せる筈も無いだろうが。
一億総パワーストーンマニアの様相を呈している。
街行く人の腕には、かなり高い確率でビーズが巻かれ、胸元にはデザインされた石のネックレスがぶら下がっている。
数年前には見られなかった光景だ。
商売ッ気たっぷりの石商人は、あれやこれやの手段で自分達の商品に付加価値を付ける。
ひところのデ・ビアスの様に。
とりわけ俺をうんざりさせるのが「石の浄化」とやらだ。
アレは一種の霊感商法である。
悪徳印鑑商売と同じだ。
買い手自身に儀式をさせて、自分達の商品をありがたがらせる、一種の催眠商法である。
続ければ続けるほど買い手に強迫観念を植え付ける。それがないとあたかも災難が降りかかるか如く宣伝する。
あたかも悪霊に見舞われるかの如く脅迫する。
特殊なおまじないさえ唱えていれば現世利益がありますよ、と説く新興宗教と同じだ。
そのうち壺を買わされる。
おまじないが日常になってしまえば、壺だってありがたく購入するだろう。
「物」は全て、等しくパワーを持っている。
それが石であれ、石鹸であれ、iPodであれ、テーブルであれ、自動車であれ、コーヒーカップであれ、時計であれ、包丁であれ、布団であれ、テレビであれ、コートであれ、恋愛小説であれ、パソコンであれ、アレであれコレであれ。
石だけが特別なのではなく、万物にパワーは宿っている。
神社庁が「ネット上に神霊は存在しない」と発表したが、そんなことはない、ネットにだってパワーは存在する。
それはヒンドゥではプラーナと呼ばれ、仏教では霊性と呼ばれ、老荘思想では氣と呼ばれ、神道では八百万の神とされ、ユダヤ教、マホメッド教、キリスト教では天使とされ、「科学」という宗教ではエネルギーと呼ばれる。
もしも浄化が必要なら、身の回りのもの全てを浄化しなければならない。
バリ島に行くと、日によっては鉄で出来たものに感謝する日であったり、書物に感謝する日であったり、電化製品に感謝する日であったりと、物に感謝し捧げ物をする習慣がある。
例えば、バイクに感謝する日にはバイクにお供え物をして、その日一日はバイクに乗らない。
書物に感謝する日は本にお供え物をして、その日一日は読み書きをしない、など。
事物は感謝の気持ちから始まる、それがバリの人々の信仰である。
そんなバリの人々は石が大好きだ。
石のひとつひとつに魂があり、自分にとって善い事をもたらしてくれる、と考える。
だから石の喜ぶ事をする。
でも、決して「石を浄化」などとは考えない。
その石の特性は、石が誕生したときからの特性であり、清めようとどうしようと変わるものではない、と考えるからだ。
なので、石は好きだが、その石が「自分の石」かどうかは慎重に考える。
自分に必要であり、かつ、自分に合っている石のみ集める。
「この石は○○にいいから」とヘンな理由を付けて闇雲に石を集めたりなどはしないのだ。
そして、ひとたび自分のもとにやってきた石は、感謝の気持ちを以ってもてなす。
それは石に対する礼の様に見えるが、巡り巡って、結局は自分の心のためなのだ。
ありがとう、という気持ちを認識するための行為なのである。
俺は石を求めても「浄化」なんてしない。
石は何万年、いや、億年の月日を越えて俺のもとにやって来るのだ。
億年って何だよ、今どき小学生だって言わない。
それが、たかだか40年ちょっと人生を歩んだ若輩者の俺如きが、何をしても焼け石に水である。
億年に対抗出来るか?
だから、おもてなしをする。
敬意を以っておもてなしをする。
宇宙の中では大先輩なのだから、それは当然の事ではないか。
決して「このコ」なんて気安く呼びかけたりはしない。
飽くまで「おもてなし」なのだ。「浄化」などではない。
バリ島のお坊さんに抽出してもらった各種のサンダルオイルを塗っておもてなしをする。
それ以外のことは何もしない。
もしも浄化がしたいのなら、石だけではなく全てに浄化の手を差し伸べるのがいい。
だから、毎日しっかりとお掃除をするのだ。
石を浄化するより何倍も効果がありそうだ。
どんなことにも感謝の気持ちを忘れずに、美化を心掛ければ最高じゃないか。