人生はアートだ!

・・・花たちから愛を・・・


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ひろさん

今日は何だかいろいろと忙しそうにしていたね



出来たのかな

そのうち公開するのね

ひろっちの ミニバラ より

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ひろさん

暑かったね

一日半袖シャツで過ごしたのは

始めてだね

明日も同様だね

元気に外仕事をしよう


ご近所の 木香薔薇 (もっこうばら) より


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         「人間の意識的(所謂霊的)な大きさ」

本当は人間の意識の大きさを測ったものなのに間違って所謂霊的な大きさと呼ばれた、人間の意識的な大きさは、彼の分別ある行動と分別ある言葉から認識できます。

ですから、或る人を霊的な、つまり意識的な大きさで知ろうとしたら、その人がどのように分別のある行動や話し方をするかに注意を払えばいいのです。

ですから、意識的な、所謂霊的な大きさは、その人の悟性と理性が分析されると判ります。

そして、悟性も理性も自然で、そして覆すことのできない論理、また自然の法則に基づいています。

人はまず間違いを犯しそしてそれから学び、それを通じてのみ悟性と理性が作り上げられうるのだということは、良く知られています。

間違いを犯すこと無しには、どんな生命も認識を集めたり、悟性と理性を造り上げたり、意識的な、所謂霊的な大きさを習得することはありません。

意識的な、所謂霊的な大きさは、人が多くの本の知識、職業知識をもっているとか、そのようなものを、所有しているとか或いは単に良い教育を受けたと言うようなことから構成されはしないのです。

この種の知識は、ただ僅かに重要である職業的、社会的な知的知識でしかないのです。

ですから、型にはまった知識はまた、職業的、社会的なものを維持できるために必要なだけなのです。

しかし、この知識は物質に関するある種の教えとして人に有益である限りでは、意識的な大きさにとって重要になるのです。

しかし、残念なことに、知的人間(或いは自分でそう思っている)は、この教えで何かを始めることを知らず、霊的にまったく単純に萎縮し、停滞したままでいるのです。

霊的そしてまた意識的に大きな人は、しかし、物質的な形での知識は事実職業的に、社会的にだけ評価されるものであり、一方、本当の霊的知識は生命の能力を高め、人を創造にしたがって正しく生きさせることを認識しているのです。

意識的な大きさは創造の法則と秘密、その観察と評価を認識し認知していることを意味しています。

しかし、この認識は意識的に正しく思考する人にのみ委ねられているのです。

しかし、意識的に小さい人は如何なる方法でも、この認識なしに何かを始めるのです。

それが事実であることは、次の概要から判ります:人は過ちを犯さなければならない。人はそれから学ぶことができ、二度と過ちを繰り返さない。

この過ちに責任有りそして認識することは、その時また、実際に犯した間違いから教えを引き出しそして決して同じ過ちを犯さないように決定されるのです。

さて、上の話に、既に過ちを教えとして認識したにもかかわらず、愛すべき隣人や他のものがやってきて当のその人を犯した過ちで非難します。

そうすると、当のその人は自然に気まぐれや恐らく悪になることはありませんが、しかし、もし何か善意が責められると、その人の中に否定的な反応が解放されます。解放されなかったとしても、非難等によって疑いが起ってきます。

一つの理解されて修復された過ちは認識されねばならず、もはや決して「蒸返され」たり、「回想」、非難や咎め、「古い藁を脱穀する」ような、ことが起されてはならないのです。

もしも、そういう事が成されると、それは、ただ意識的な無能と意識的な無知の中でのみ発見される無責任な愚行と同様な無分別に相当するものです。

しかし、一般に如何に非理性的にそしておろかに処理されているかは、異なった官庁、特に警察と裁判所の機能から認識されます。

もし、人が一度犯罪を犯すと、官庁の人々にとっては、如何なる小さな事によっても、一生涯繰り返して非難されそしてそれにしたがって人が格付けされるに十分な理由になります。

また、一度そうなったことは忘れられず、それによって、当人は攻撃的な態度を取らされ、またそうするように強制されるのです。

このことから、一度純粋に心理学的に見てみると、いろいろな法律は個々の論理を欠き、よってまったく明らかにまさに馬鹿な人間によって用意されたものだと結論されます。

しかし、そのような愚かな法律と規則に従いそしてそれを擁護する人間に対して、あなたは研究を進める者として、あなた自身の意見を持つことができます。

「古い藁を脱穀する」行為は、当の人間の極端な馬鹿さ加減の高さを示すだけでなく、純粋に心理学的に見ると、絶対的な白痴であることを呈示し、また、人間を対立と攻撃に駆り立て、また、過ちからの教えの理論に対して反抗の意志をもたせるのは事実です。

もし、立法とその施行が、この事実を認め、それに従って扱われるに十分に理性的で分別があるならば、世界は累犯的な犯罪に悩まされることが少なくなるでしょう。

しかし、その法律の施行の愚かな行為によって、論理と意識的な発展はもはや道に戻れなくなり、それによって道を踏み外した人間は犯罪へと強制されるのです。

この観点で、唯一の正しい方法が、意識的な発展そして意識的な理性と悟性へと導きます。

そのことから論理的に、一度道を踏み外した人間が過ちを正され、そしてもし必要ならば罰せられること、しかしその後すべては忘れられ、新しい他の過ちが犯されても、もはや光が当てられることはないという結果になります。

しかし、過ちが「古い藁」として繰り返して脱穀され、その書き止められたものを記録に見つけるということは、原始的な愚かさの頂点を越えます。

加えてそれは、人間が今までの自由についてのすべてのおしゃべりにも関わらず、決して自由ではなく、人間的で自然を歪める法律の奴隷になっていることを示しています。

人間は、もし人生の意義のために努力し、決して利己主義で、自己中心で、考えたり処理したりせず、また決して間違った法規、法律、規則に固執して生きたりしないならば、意識的に(所謂霊的に)大きくなれます。

そのような固執する人は人間ではありえず、意義、目的そして満たしもない、ただの型紙でしかありません。

人生の意義を認識した人は、創造の法則を認識してそれに従います。

しかし、それに従うと云うことは、真実で正直で創造的な愛を感じ、そして人間であることを示しそして愛を与えること意味しています。

しかし、愛は言葉ではなく、認識であり、認識から結果としてでてくる感情と気持です。 

感情と気持それは、それに相応しい個々の人間に与えられるものです。

加えて、愛は計り知れない力であり、その力は、まさに憎しみが殺すことができるように、生存能力を作りだすことができるのです。

知識と知恵において人の意識が大きくなればなるほど、彼のすべてのものや人々への創造的な愛も大きくなります。 

他の言葉がないので、愛、人はそれを普遍的な愛と呼ばねばなりません。

しかし実際は、愛は最初に生命を可能にする創造の根源的な力です。

創造は古い昔の言葉-OMで自身を表現しています。

OMは生命の基本的な要素であり、存在(複数)の力です。

そして、OMの中で、人間はただ純粋に一宇宙的意味ではなく、全宇宙的な意味をもっている自分の使命を満たすのです。

この認識に従えば、通常の考えの人間には自分の意識をこの方向に向け、創造の法則に従う以外には不可能です。

しかし、もし彼がこれをせず、拒否し、あるいはこの叡智の真理を笑うならば、彼は見せかけのためにのみ人間の人生を生きており、内部は空虚で、うつろで無知なのです。

これから、創造と創造の愛がない人間は、確かに創造が作り出した本質でありますが、しかし、その本質は自分の愚かさの中で、自分を宇宙の中心におき、そして不十分で間違った自然に反した、長く変らないものでも普遍的でもない法則を用意するのだと:結論されます。

創造の法則と自然法則は永遠に不変であり、人間によって変えられることは有りません。

人間によって作られた法律は常に時代に合わせて連続的に改訂することが要求されるという事実がこの事を証明しています。

愚かな人間だけが、唯一人間の作った法律が必要でありよいものだと主張できるのです。

しかし、創造の法則と自然法則は創造とすべての最も小さい存在に至る最後の完全さです。

そして、人間がそれに従うならば、自然が人間の臣下になり、そして自然は地上に純粋な平和と喜びをあらしめるでしょう。

しかし、人間がそれに従わないで行動するところでは、悲惨、危急や戦争、犯罪や憎しみ、不一致と殺人や殺害が支配するのです。

創造の法則を認識し、尊重し、承認する人は意識的に大きく、だから彼はその法則に従って生き、自分の人生を意味のある自分の使命と並列に置きます。

それから再び、もし、隣人がそれに相応しいものならば、隣人に対する普遍的な愛が認識され、感じられねばならないことが結論されます。

しかしもしそれがこの事例ならば、たとえそれから酷い仕打ちが起ろうとも、それはすべての環境で起られねばなりません。

この愛は隣人愛と呼ばれ、それは創造の中での創造の責務なのです。

この愛はまた、愛と援助が適切である限りは、それがすべての酷い仕打ちを乗り越えて隣人へ向けられることを引き起こします。

意識の能力が大きくなればなるほど、つまり、より多くを知り、より叡智が多くなればなるほど、すべての包括する愛の認識と感情がより大きくそしてより強烈になります。

このことから、人が他の人に正直な愛を与える時には、また援助を与える時には、人は幸せになることが結論されます。

如何なる種類の如何なる対価もその際に要求されることなく、期待されることもありません。何故なら、贈り物として与えられうる愛の感情がまさに十分な報酬だからです。
             
              真実と叡智の人は、本当の愛として本当の愛を無償で与える
              ことができる人です。

 (翻訳 ひろ)
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ひろさん

暑い位だったね

いろいろありでお疲れさま


ご近所にて タンポポの種 より

===

創造と人間


創造よ、あなたは、自由ですべてを包み込む霊です。

あなたは、風の穏やかで、かさかさいう音の中にも、

雷の轟き、雷鳴、稲妻の光の中にも同様に、そして

元々あなたが息吹を与えたすべての生命そのもの、

そして、ともかくすべての時を通して存在したもの

の、すべてのなかに存在しています。


人間は、あなたの愛と強さと英知を、人間がその中で

生きられる、すべての美とすべての心を高めるものと

を、必要としています。


日の出と日の入りは人間を喜ばせ、立ち直らせます。

そしてまた、それは元々の生成と消滅の教えであり、

進化した真の人間になるための教え、そして賢くなり、

生命の教えを理解するための教え、なのです。


創造は、人間が人生の意味を理解し、その目的を想い

うかべ、理解と真に自由意志でもってそれに勤める

為に、いつでも人間に援助を与えるでしょう。


人間は、その意味を理解し、次の真実を把握するでしょう。

真実は、葉や花々の中にも留まっています。その真実

は、石や岩の中にすら見つけられます。また、地に這

い、空を飛び、水を泳ぐものたちのすべての中にも、

いろいろな形態の細々生きているものの中にも見つけ

られます。


人間よ、更にみずから、開いた感性をもって、開いた

眼差しを持って、いつの日か、そっけない地球の生命が、

夜になる前に沈む太陽の光のように消え去る時がきた時に、

後悔や恥ずかしさを跡に残さずに、創造の中で生きるために、

人間の霊が喜びに満ちて、好意の意識を持って、

創造の存在の中の高みに浮かぶという明確な意識を持って、

創造の道に従うように用意しなさい。


Billy

(翻訳 Hiro)


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ひろさん

何だか風が強いね

今日は飛び入りの仕事の要求が来て

ひろさん

てんてこまいしていたね

なんとかやったのかな

そんなこともあるさ

人のためは己のためだからね

いいよね


ご近所の 私だって ツツジさん より

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