どのように聖書を正しく解釈できますか(2)証人は自分たちの経験だけに注目しすぎた | ヨハネのブログ

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I am Japanese female Christian Masako
Katahira, age 66.

I stay at Kagoshima,Japan after 2-year-stay of Yerevan, Armenia from September 2022.
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 どのように聖書を正しく解釈できるのでしょうか。ある人は、クリスチャンが自分の経験に影響されて聖書を解釈する時に、間違った解釈をするのではないかと考えます。
 

 この記事では、自分の経験に基づいて聖書を解釈することが間違いにつながる可能性もあること、でも聖書の預言がどのように成就しているかという自分の経験が聖書の預言の解釈に助けになる場合もあることを説明したいと思います。
 

(1)預言の成就の解釈を自分たちの経験を中心にすると間違う場合がある
 

 例えば、エホバの証人は、自分たちの経験にあまりにも、注目しすぎたために、聖書の解釈を間違ってしまったと思います。
 

 191857日、アメリカ合衆国地方裁判所はものみの塔協会の二代目の会長であるラザフォードを含む8名をスパイ法違反で逮捕し連邦刑務所に投獄しました。後になってスパイ法違反の嫌疑は晴れ、彼らは無罪になり、自由に活動できるようになりました。彼らはその時の経験を自分たちの聖書の預言の解釈の中心に置きました。




 

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投獄された8名。Gli otto membri del consiglio direttivo della Watchtower Society condannati nel 1918. Da sinistra: W. E. Van Amburgh, J. F. Rutherford, A. H. Macmillan, R. J. Martin, F. H. Robison, C. J. Woodworth, G. H. Fisher, G. De Cecca

エホバの証人は八人の兄弟たちの投獄と解放の経験に聖書の預言が成就したと解釈した

 


 

 啓示9章の四人の使いが大川ユーフラテスでの捕らわれから解放されるという預言も、啓示13章の二人の証人の死と復活という預言も、すべて彼らのその経験によって預言され成就したと解釈しています。(啓示9:14,15;11:7,11)彼らの「その時,神の秘義は終了する」Then Is Finished the Mystery of God”という本(1969[日本語: 1976] 1988年に発行された「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」Revelation​—Its Grand Climax At Hand!”の本 の中にそのように説明されています。


 

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証人たちは啓示の書の二人の証人の死と復活が自分たちに成就したと後になって説明した


 




 

(2)戦時中のエホバの証人の神の律法に対する忠実さはほめられるべきこと



 

 わたしは大きな意味では、エホバの証人に、確かに聖書の預言が成就していると思います。彼らは、神とイエス・キリストに従うために不当な迫害を受けていました。彼らの経験は、イエスに従おうとするクリスチャンが迫害されるというイエスの予告を成就しています。(マタイ10:22)
 

 
 さらに、
証人たちは、戦時中に殺人を避けるという命令に従うために、迫害を受けました。一部の証人たちは、そのために命を失いました。命を失うことになっても人殺しを避けたという彼らの立場は、神の律法に対して忠誠を示す廉直なものでエホバ神に喜ばれるものだったと思います。


 

 彼らは神の崇拝を第一にして、人間の指導者や政府に対する崇拝を避け、命を失う人もいました。それは、イエスがペルガモン会衆に予告したアンテパスが神への忠実のために、皇帝崇拝つまり国家主義によって命を失ったという状況が証人たちに起こっていたと思います。(啓示2:13)

 

 聖書は「神に対する良心のゆえに悲痛な事柄に耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいことだからです。・・・善を行なって苦しみに遭っているとき,あなた方がそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです。」と述べています。(ペテロ第一2:19,20)
 

 さらに、ラザフォード兄弟たちがスパイ法に違反するという虚偽の非難を受けたことは不当なことであったと思います。また、彼らの経験は、彼らが神に従うために経験した不当な迫害であったと思います。

 

 それで、彼らが正しいことをしたために苦しみを受けて耐え忍んだのは、非常に尊敬されるべきことだと思います。(啓示2:10)それは、証人たちの神に対する誠実さを表しています。さらに良心的兵役拒否のゆえに苦しみを忍ぶという証人たちの立場は神に喜ばれていたと思います。

 

 ところが、証人たちは、自分たちの中心的な創立メンバーのグループが、米国政府に迫害されて投獄され解放される結果になったという事態の進展に不当なほど注意を向けすぎました。彼らの解放は、確かにエホバ神の彼らに対する助けと保護と是認を示していたとは思います。

 

 しかしながら、彼らは、そのような特定の経験をすることを聖書から前もって予見していたわけではないと思います。

 

(3)イエスの場合は前もってご自分の死と復活を弟子たちに予告された


 

 イエスの場合はご自分の苦しみの死と復活を前もって弟子たちに予告されました。(マタイ16:21)ですから、弟子たちは預言が成就したことが分かりました。イエスの場合は、イエスの贖いの死の時期やどんなことが起こるかがダニエル書やイザヤ書で予告されていたので、預言が成就したことが分かりました。(ダニエル9:24。イザヤ53:5-7)

 


 

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イエスの場合はご自分の死と復活を前もって予告された
それゆえに弟子たちはイエスの背後に神の後ろ盾があり預言が成就したことが分かった





 

 それで、一世紀当時のイエスの弟子たちは、聖書とイエスの言葉の予告があったので、イエス・キリストが辱めを経験しても、イエス・キリストの背後に、エホバ神の是認とサポートがあることを認めることができました。
 

  ですから、預言が本当に成就したとみなされるためには、前もってある出来事が起こることが予告されなければなりません。予告されて成就するならば、確かに聖書の預言が成就したと言えますが、証人たちの場合、そうではありません。

 

(4)証人たちは物事が起きてから自分たちに聖書の預言が成就したと意味づけをした

 

 エホバの証人の場合は、1914年に、イエスが王になると考えていました。それは、証人たちの観点からはきちんとした聖書的な根拠がありました。(この記事では、その聖書的な根拠が間違っていることについては深く取り上げません。)

 

 しかし、エホバの証人は、1914年が過ぎて、その後、すぐにハルマゲドンと世の終わりが来ると当初考えていました。それで、彼らは、彼らの言う大いなるバビロンに攻撃されて解放されるというようなことは予見していませんでした。


 

 エホバの証人は、後になってから自分たちの経験を大いなるバビロンによる迫害とそこからの解放という預言の成就という意味付けをしました。

 

  そして、エホバの証人は、1914年が過ぎて、その後、すぐに世の終わりが来ると当初考えていました。しかし、彼らの予想していたようには事態は進展しませんでした。


 

 彼らの経験は、確かに、かなり大きな出来事であったとは言え、八人のクリスチャンが迫害され投獄されたという一つの経験ひとつで、啓示の書の預言のかなりの部分を説明しようとするのは無理があったと思います。

 

 そして、証人たちは、自分たちに啓示の書の預言がかなり成就したと考えたために、完全に自分たちだけが神に是認されているキリスト教のグループであると考えました。わたしは証人たちの背後にエホバ神はおられたとは思いますが、それでも、証人たちは全部正しいわけではなかったと思います。

 

 実際、証人たちのように戦時中に良心的兵役拒否の立場をとって苦しみを受けたのは、エホバの証人だけではありませんでした。キリスト教会の一部の成員たちも、戦時中に殺人や国家を崇拝することを避けるという立場をとり、投獄されたりしました。

 

 さらに、ダニエル11章の北の王と南の王の抗争は何十年にもわたることが預言されていると考えられます。ですから、ダニエルの預言と、啓示の書の預言は互いに関連があり、調和をしているはずです。ですから、啓示の書を解釈する場合、そのダニエルの預言との整合性も考えなければなりません。

 

 ですから、啓示の書の預言も何十年にもわたる出来事を預言していると考えるのが妥当ではないでしょうか。ですから、証人たちのひとつの経験が啓示の書のかなりの預言を説明しているとみなすのは、間違いでしょう。
 

 ですから、自分たちのひとつの経験だけに注目して聖書の預言全体を解釈しようとすると聖書を間違って解釈してしまう可能性があると思います。れで、自分たちのひとつの経験だけを中心にして預言の解釈をしようとするのはおおむねできないのではないかと思います。

 

(5)一世紀のクリスチャンの場合彼らの生活に聖書の預言が成就した
 

 しかしながら、聖書の解釈をする場合、自分たちが見聞きすることを中心に解釈するのも、間違っていない場合があります。一世紀のクリスチャンの場合は、聖書を解釈する際に、聖書の預言がどのように自分たちの時代に成就しているかも考慮しました。そして、彼らの解釈は間違っていませんでした。


 

   一世紀には、とりわけイエス・キリストに関する預言を中心として多くの聖書の預言が成就しました。イエス・キリストの一度目の到来は、聖書中の数多くの聖句の中で、予告されていました。

 

 メシアの到来の時期に関するダニエルの預言、メシアが贖いの犠牲を遂げること、古い契約に代わって新しい契約が発効することなど、一世紀には多くの預言がイエス・キリストに成就することになりました。(ダニエル9:24。イザヤ53:5-7。エレミヤ31:31,32)

 

 預言を成就するのに中心的な人物であったイエス・キリストは聖書中の預言がどのようにご自分に成就することになるかを具体的に見極めておられので、ご自分が苦しみの死と復活を経験することになることを前もって予告されました。(ルカ18:31-34)

 

 弟子たちは、イエスによる預言の説明がなされてそれがその通りに起きたのを見聞きして、イエスが預言されていたメシアであることを確信できました。そして、その当時、イエス・キリストに従って王国の良いたよりを宣べ伝え続け、山に逃げるという行動をとったのは、一世紀当時のクリスチャンだけだったでしょう。

 

 さらに、一世紀のクリスチャンは、聖書の預言を考慮して、さらに、聖霊がどのように働き事態がどのように進展しているかを観察して、ユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人にも神の王国に入る機会が差し伸べられたことを見極めました。(使徒15:13-19)


    
一世紀のクリスチャンたちは、パレスチナ地方の相対的に小さなキリスト教のグループであったにもかかわらず、彼らに聖書の預言の多くが成就したことを聖書は説明しています。ですから、特定の地域にいる比較的に小さな宗教グループに聖書の預言が成就する場合もあることを一世紀の事例は示しています。



 

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比較的に小さな地域に住むひとつの小さなグループに聖書の預言が成就した




 

   それで、聖句が自分たちや周囲の状況にどのように成就しているかを観察することも、確かに聖書を正確に解釈するのに助けになります。一世紀のクリスチャンたちの場合は、自分たちの経験を考慮することは正しく預言を解釈する結果になりました。

 

 ですから、自分たちのひとつの経験だけに注目して聖書の預言全体を解釈しようとすると聖書を間違って解釈してしまう可能性もあります。自分たちの経験を預言の成就とみなすのには、慎重さも必要です。長期にわたる、そして全体の状況を見る視点が必要です。

 

 しかしながら、クリスチャンの生活に聖書の預言は成就することもあります。その場合は、前もって預言の解釈がされていなければならないと思います。