ヘブライ1章・イエスが礼拝されるのは神だということですか(新共同訳) | ヨハネのブログ

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「更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました。」(ヘブライ1:6 新共同訳)


 三位一体を支持する人たちは、その根拠としてヘブライ16節をあげます。その聖句は、新共同訳では冒頭のようになっています。新改訳では、「神の御使いはみな、彼を拝め。」となっています。このようにヘブライ16節では、新共同訳、新改訳、口語訳およびバルバロ訳によれば、み使いたちはイエスをいわば崇拝するように指示されています。このようにイエスが崇拝の対象にされているということは、イエスが神であることを示していますか。



 新世界訳では、ヘブライ16節を「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」と訳しています。新世界訳では、なぜこのような言葉で訳しているのでしょうか。

「礼拝する」、「拝む」、つまり崇拝するという意味の言葉に訳されているギリシャ語は、プロスキュネオーです。この語は、確かに、崇拝するという意味があります。例えば、黙示録410節、711節、194節には、神をプロスキュネオーつまり「礼拝する」ことについて述べられています。また、マタイ410節では、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」とあり、ここでも、神に対する崇拝を表わす語として、プロスキュネオーが使われています。



しかし、プロスキュネオーは、他の場合にも使われる語です。例えば、使徒1025節では、コルネリウスがペテロを出迎えた時、「足元にひれ伏して拝んだ。」というところで、プロスキュネオーが使われています。その時、ペテロはコルネリウスがそうすることをとどめました。コルネリウスは、もちろんここでペテロを崇拝しようとしたのではなく、深い敬意を表すあいさつをしたかったのでしょう。ここでは、プロスキュネオーは単にひれ伏す行為を意味していました。

 


また、この語は、セプトァギンタ訳の列王第一123節では、ダビデ王に近寄った時の預言者ナタンの行為を述べるために使われています。新共同訳では、「ナタンは王の前に進み出て、地にひれ伏し」と訳されています。ナタンは、ダビデに対して、地にひれ伏して挨拶をしましたが、崇拝したわけではありません。



また、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の創世記237節では、アブラハムが取り引きを行なった人々に対して当時の習慣に従って行った事を描写するのに、用いられています。新共同訳では、創世記237節を、「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし」と訳しています。新世界訳では、「アブラハムは立ってその土地の人々、ヘトの子らの前に身をかがめ」と訳しています。それで、ここでは、プロスキュネオーは、崇拝することではなく、身をかがめて挨拶をすることを意味していました。



それで、「新約聖書初期キリスト教文献希英辞典」によれば、プロスキュネオーという語は、「ある人の前に平伏して、その足や衣のへりや、地面に口づけする習慣を示すのに用いられ」ました。(シカゴ、1979年、バウアー、アルント、ギングリッチ、ダンカー共編第2版、716ページ、英文)



それで、プロスキュネオーという語は、崇拝することを表わすだけではなく、ある対象に対して、深い敬意を表明することを表わす語としても用いられます。それで、ヘブライ16節のプロスキュネオーの訳が、「敬意をささげる」と訳していても、受け入れられる訳であることが分かります。

 


ですから、ヘブライ16節に、み使いに対して、イエスをプロスキュネオーするように命じられていても、それは、イエスを崇拝するようにと命じているのではなく、非常に深い敬意を表わすようにと命じていることが分かります。ですから、この聖句は、イエスが崇拝されるべき唯一まことの神であることを意味してはいません。

 

イエスを礼拝せよ、プロスキュネオーするようにと命じられてはいても、この聖句は、イエスが三位一体の神であることを証明してはいません。聖書が崇拝するように命じているのは、エホバ神おひとりです。イエスご自身が「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言っておられます。(ルカ48)聖書は、私たちがイエスに対して深い敬意を示すようにと命じています。しかし、たとえ、イエスといえども、崇拝するのは、間違っています。





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