Toulouse Lautrec 

1950年~1978年 イタリア産 牡馬 栗毛

父Dante 母Tokamura 母の父Navarro

 

10戦7勝(分かるだけ)

Premio Alessandro Sambruna:1

Gran Criterium:着外

Premio Chiusura:3

Premio Triennale Italia:1

Premio Emanuele Filiberto:1

Derby Italiano:3

Gran Premio d'Italia:1

Gran Premio di Milano:1

 

 

フェデリコ・テシオが生産、調教、レースプラン、そのすべてに最後まで携わったのはToulouse Lautrecたち1950年が最後の世代になりました。また同期には際立った良績を残した馬がいませんので、Toulouse Lautrecはダービーこそ勝利できませんでしたが、存命中のテシオにイタリア大賞とミラノ大賞の勝利をもたらした最後の馬になりました。

 

ドルメロ名牝たちの結晶

Toulouse Lautrecの父Danteは英国産。Nearcoの子で、1945年ニューマーケットで行われたダービーステークスの勝ち馬です。産駒にはDarius(英2000ギニー)、Carrozza(英オークス)Discorea(愛オークス)、子孫には1980年の英ダービーを勝ったHenbitらがいます。Dariusの系統からは日本で活躍したダイナコスモスが産まれ、小倉記念のワンモアラブウェイやマイルCSや安田記念を勝ったトロットサンダー、BMSとして優秀なTop Ville(MontjeuやAksar、ダイワカーリアンの母父)などが1990年代頃までは活躍していましたが、現在ではほとんど見かけなくなりました。

 

母Tokamuraはテシオの名牝で、伊セントレジャー他に勝利。半弟にTenerani、半妹にTrevisanaと、三頭とも伊セントレジャーに勝利しているスタミナ一族です。産駒にはToulouse Lautrecの他に、Tommaso Guidi(伊セントレジャー)、Theodorica(伊オークス)などがいるドルメロ屈指の牝系です。

 

Toulouse Lautrecの血統内には、Nogara、Catnip、Fausta、Nera di bicci、Try Try Again 、Angelinaと、ドルメロの歴代名繁殖牝馬の名が連なっています。Ribotがドルメロ歴代の牡馬で構成されているのなら、Toulouse Lautrecは歴代牝馬で構成されているともいえます。

 

フェデリコ・テシオの傑作Nearcoは1938年、イギリスに売却され種牡馬として活躍しました。その名声はテシオの耳にも聞こえてきたでしょう。しかしちょうど第二次世界大戦中で、イタリアとイギリスは断絶されており、種付けに行き来するどころか些細な情報のやりとりすら困難な状況でした。(この時の興味深い話があるのですが、いずれまた)また、テシオは完成した馬や、どれほど活躍した名馬であっても、興味を失えば見向きもしませんでした。

 

だからでしょうか。テシオは種牡馬Nearcoを一度も使用しませんでしたが(実は2回使ったという説もあり)、その産駒には興味を持ち種牡馬として使用しました。1945年の英ダービー馬のDanteと1949年の英2000ギニー、英ダービーの二冠馬Nimbusです。(どちらも英ダービー馬というのが実にテシオらしい)先ず1949年、AvenaにDanteを種付けして産まれたのがLauraという牝馬で、翌年にTokamuraにDanteを種付けして産まれたのがToulouse Lautrecでした。

 

Toulouse Lautrecの名は、フランスの画家トゥールーズ・ロートレックから取られているのはすぐに分かりますが、脚が丈夫なことを重要視するサラブレッドに足が不自由だったロートレックの名前を付けたことに、テシオは何か思うところがあったのでしょうか。

実はToulouse Lautrecはその巨体に見合わず脚が弱く、また健康状態も決して優れているわけでなく、体調を崩しレースをキャンセルすることも多かったようです。

 

テシオはTouolouse Lautrecを特に気に入っていたわけでも嫌っていたわけでもないようです。しかし1950年組はToulouse Lautrec以外、際立った良績を残した馬が少なく、結局テシオ生前最後の傑作になり、珍しいNearco直系の子で、虚弱だった割には1978年28歳まで生きました。(テシオが存命中に産まれた馬で最も長く生きたのは、1953年生まれで1981年まで生きたTissotだそうです)

 

2歳から3歳春

1952年、2歳でデビューしたToulouse Lautrecは同期の牝馬La Crementinaと2歳チャンピオン戦Gran Criteriumに出走して、ドルメロ牧場のテシオの馬という事で人気を集めますが同馬ともに着外に終わりました。この時の勝ち馬Dacia(牝馬、ソルド牧場)と2着馬Alberigoとは、同期のライバル関係になります。暮れのPremio Chiusuraで3着には入線したものの、テシオの馬としてはさほど目立った2歳戦ではありませんでした。

 

1953年3歳になったToulouse Lautrecは、Premio Emanuele Filibertoで再びDaciaと対戦。Daiciaはここまで無敗でこの年のクラシック戦線の主役とみなされており、下馬評もToulouse LautrecはDaicaには勝てないと評されていましたが、終わってみればDaciaに6馬身差をつけたToulouse Lautrecの快勝。一躍クラシック戦線に名乗りを上げました。

 

しかしPremio Parioliは不出走(勝ったのはAlberigo)、そしてDerby ItalianoはRivisondoliとAlberigoに敵わず3着でした。ちなみに牝馬クラシックはPremio Regina ElenaはMezzegra、Oaks d’ItaliaはDacia、テシオのDiana Brizianoはオークスでの3着が精いっぱい。結局テシオはこの年1つもクラシックを勝てませんでした。

 

しかしテシオはこの馬を見捨てたわけではありません。生産者生活50年以上の経験と知識、勘はこの馬がこのまま終わると考えることはできませんでした。テシオはToulouse LautrecをGran Premio d’Italiaに出走させます。

 

Gran Premio d'Italia

La Stampa 1953年5月31日号より

サン・シーロ競馬場でのGran Premio d’ItaliaはDerby Italianoの再戦の模様を呈しています。3歳馬の距離2400メートル、出走を予定しているのは、Rivisondoli (58 Fancera) della Scuderia Aterno//Rio della Grana (58 Renzoni) della Scuderia Mantova//Master (58 Gabrielli) di Castellini//Toulouse Lautrec (58 Camici), Diana Briziano (56 Trappolino) di Ruzza Dormello Olgiata//Valseur (58 Pacifici),Paria (56 Panavano) di Razza del Soldo

1番人気は先日のDerby Italianoに勝ったRividondoliです。

 

結果

1着Toulouse Lautrec

2着 Rivisondoli

3着 Dacia

 

イタリア大賞でダービー馬とオークス馬に勝ったToulouse Lautrecは3歳春の終わりにきて世代の頂点に立ちました。そうなればテシオの目標はもちろん6月、イタリア競馬の最高峰Gran Premio di Milano(San Siro 3,000m)です。ところがまたもやToulouse Lautrecは体調不良に見舞われてしまい黄信号が灯りました。

 

Gran Premio di Milano

La Stampa 1953年6月21日号

Razza Dormello OlgiataによるとToulouse LautrecのGran Premio di Milanoへの出走は、当日の朝まで決めないと発表されました。この種の発表は珍しく、余計にグランプリへの興味を集めています。Toulouse Lautrecが出走すれば優勝候補になるのは間違いありません。出走しないのであるならば、馬場の状態を問わないPremio ParioliとPremio Omniumに勝ったAlberigoが人気になる可能性があります。他にも、Derby ItalianoとPremio Scheiblerの勝ち馬Rivisondoli、昨年のDerby ItalianoとSt.Leger Italianoの2着馬Oise(後1955年のミラノ大賞を勝つ)、Coppa d’Oro di Milanoをレコード勝ちしたOrly、重馬場のPremio Principe Amedeoに勝利したSacile、ローマからの危険な刺客Lama II、Iroquois、また長距離を得意とするテシオのTommaso Guidiも調子を上げています。

 

 

La Stampa 1953年6月22日号より

サンシーロ競馬場、月曜日の夕方。重馬場で粘着質の馬場のサンシーロ競馬場は、Toulouse Lautrecの健康状態により出場が不明瞭だったが、最終的には出場が決まった。スタートしてすぐOrlyが先頭に立ちレースを引っ張るが、馬群を嫌うToulouse Lautrecはカミーチ騎手が後方待機の姿勢をとった。Sacileが馬群の脇を追走。Alberigoがアタックを開始すると、すぐさま先頭にたち二馬身差をつけた。エンジンのかかったToulouse Lautrecはゴール前150mの地点でわずかにAlberigoを抜きクビ差で優勝した。

結果

1着Toulouse Lautrec 3:19:1/5

2着 Alberigo 首差

3着 Oise

4着 Tommaso Guidi

5着 Lama II

6着 Rivisondoli

7着 Iroquois

8着 Orly

9着 Sacile

 

このレースの動画があります。すごい。

 

 

しかし、テシオはこれ以上Toulouse Lautrecに何かを求める事はありませんでした。秋の凱旋門賞を口にする事も、セントレジャーへの出走も考えず引退させる決断をしました。それはお互いにとって幸福な選択だったのかもしれません。このGran Premio di Milanoの勝利は、テシオ最後のミラノ大賞勝利となりました。翌年Botticelliが勝利した時にはもうこの世にはいなかったからです。

 

引退後、種牡馬時代

Toulouse Lautrecは引退後、しばらくイタリアで種牡馬生活をした後、1960年頃アメリカのRex Ellsworthの元へ売却されアメリカでNorthern DancerのライバルThe Scoundrelや、Lost Message(産駒にイタリアに渡り活躍したLaomedonte)らを派出しました。

 

イタリアに残された産駒の一頭Utrillo IIは、イタリアで走った後南アフリカで種牡馬となりHawaiiを産みました。Hawaiiはアメリカで走り1969年のマンノウォーステークスなどに勝利。そして種牡馬になりHawaiian Sound(Beson&Hedges Gold Cup)、Henbit(英ダービー)らを輩出して1980年代に活躍しました。

 

日本にもToulouse Lautrecの血が多く輸入されています。後年まで各国でクラシックホースを生み出したあたり、ネアルコやリボー、ドナテロにも劣らない成績ではないでしょうか。

 

Toulouse Lautrecは、晩年イタリアに戻って余生を過ごしました。そして1978年に亡くなるまで自分の子孫たちの活躍をしっかりと見届けたのではないでしょうか。

 

主な産駒

Bazille

1958 牡馬 母Barbara Siriani 母父Verso

Premio Ambrosiano他

 

Utrillo II

1958 牡馬 母Urbinella 母父Alycidon

Premio Parioli 3着

引退後、南アフリカで種牡馬になる。主な産駒にアメリカでマンノウォーステークスを勝ったHawaii。Hawaiiは1980年の英ダービーを勝ったHenbitなどを生み出し、1980年代Toulouse Lautrecの血脈はHawaiiによって突如蘇った。でも、瞬間最大風速だったかもしれない…。

 

Proteo

1958年 牡馬 母Probationer 母父Blandford

St.Leger Italiano 1着

 

The Scoundrel

1961年 牡馬 母Malekeh 母父Stardust

フロリダダービー2着、ケンタッキーダービー2着、プリークネスステークス2着

アメリカ生まれ。同期のノーザンダンサーとしのぎを削った。アメリカとフランスで種牡馬として活躍した。

 

1980年代まで辛うじて血脈を繋いできたToulouse Lautrecでしたが、1990年代に入ると後継種牡馬が育たず、その系統は今やほぼ絶滅してしまいました。2002年生まれで英国で障害競走で活躍したBreedsbreezeは、Hawaiiの孫でToulouse Lautrecの血脈が21世紀までは続いていたようです。

 

Breedsbreeze 2002 愛国産 鹿毛

父Fresh Breeze 母Godfreys Cross 母父Fine Blade

障害競走 Tolworth Hurdle他

 

 

参考

La Stampa