Cavaliere d’Arpino  1926年生まれ1941年死亡 イタリア産 牡馬 鹿毛

 

5戦5勝

1929年4月Premio Artegno(1200m ???)1着

1930年4月Premio Ambrosiano (2000m San Siro)1着

1930年5月Premio Omnium(2400m Capannelle)1着

1930年6月Gran Premio di Milano(3000m San Siro)1着

※ミラノ大賞を勝った時点で5勝目らしいです。2歳は走らず、3歳は一戦のみ。4 歳のアンブロジアーノ賞で約1年ぶりのレースとあり、4歳で4勝していないと5戦5勝にならないのですがあと1戦が何なのか分かりませんでした。1930年6月のPremio Principe Amedeo(2600m Milafiori)がそれっぽい気もしますが載ってないのはおかしい。

 

1941年イタリア首位種牡馬

主な産駒 Ursone(伊セントレジャー他) 、Bellini(伊ダービー他)、Beatrice(伊1000ギニー)、Pallade(伊オークス)、Traghetto(伊ダービー他)

※1960年代頃まではBellini以外の系統もわずかに残っていたようですが、1970年代になると途絶えてしまい、現在はRibotの系統以外残っていないようです。

 

 1930年。東京優駿が始まる少し前のこと。イタリア競馬界に突如現れて、わずか5戦だけの戦績で引退した悲運の名馬こそ、フェデリコ・テシオが「我が最良の馬」と言ったCavaliere d’Arpinoです。

マスコミの質問に対して、言葉数少なく謎めいた事しか言わないテシオが素直に「Bellissimo!(最高傑作)」と言うとは思えません。伝記作家ヴァローラの言葉を借りるなら「Migliore」(これまでの中で最良)という評価が実にテシオらしい気がします。

それでもCavaliere d’Arpinoがすごい馬だったのは間違いなく、少なくとも1930年のミラノ大賞の勝ちっぷりは、当時、史上最強のイタリア馬(イタリア人は欧州一と思っていたそうで)と評価されるような勝ち方だったそうです。

 

「Galopinのクロスが効果的ですね」

Cavaliere d’Arpinoの母、Chutteは1920年、テシオがイギリスで珍しく6,000ギニーもの大金をはたいて購入した牝馬で、一番目にミラノ大賞を二回勝利したCranach(父Cannobie)、そして三番目に生まれたのがCavaliere d’Arpinoでした。(その一族はCの家族を見てみてください。結構、広がっています)父はデ・モンテルの名種牡馬Havresac IIで、この時期圧倒的なイタリアリーディングサイアーでした。

ドルメロ1926年生まれは、残念ながら誰もクラシックに勝利できず、テシオにしては珍しく不作の年でした。しかし、後にドルメロを支える名繁殖牝馬Turlettaや、日本の白いアイドルホース、ソダシの祖先になるMichelozzaが産まれた年でもありました。

 

「2歳になりました。ただ、ちょっと脚元に不安があるようです」

そんな両親のもとに生まれた鹿毛の牡馬はCavaliere d’Arpino(イタリアのバロック期の画家Giuseppe Cesariの通称で、アルプスの騎士の意)と名付けられました。

ところが生まれつき体質が弱く、脚元に爆弾(滑膜炎リウマチらしい)を抱えている状態で、まともな調教ができません。テシオはその素質は高く評価していたものの大変不安な状況でした。結局2歳でのデビューは叶わず、デビューしたのは3歳、もうクラシックが始まろうとする1929年4月1200mのPremio Artegnoを圧勝します。

 

今の時代でも3歳の4月に有力馬がデビューすることは稀でしょう。

テシオもそうしたかったわけではありません。Cavaliere d’Arpinoの類まれな才能に惚れこんだテシオは、なんとしてでもデビューさせたかったのです。同世代のOrtelloは2歳王者になり、すでにクラシックの有力候補。この時点ではCavaliere d’Arpinoを評価する者は少なかったことでしょう。ただ一人、フェデリコ・テシオをのぞいて。

 

デビュー戦を圧勝したCavaliere d’Arpinoでしたが、脚部の故障が発生。

とてもダービーには間に合いません。3歳にわずか1戦を走っただけで、約一年間の長期休養に入ります。テシオは悔しかったでしょう。しかし、それでもCavaliere d’Arpinoの能力をテシオは信じていました。その間にOrtelloは、イタリア・ダービーを始め、イタリア大賞、ミラノ大賞、イタリア・セントレジャー、さらには凱旋門賞まで勝ってしまいました。

これはもう誰の目にも明らかです。現在イタリア最強馬はOrtelloなのです。テシオが少しばかり留飲が下がったとだとすれば、暮れのPremio Chiusura(San Siro 1400m)でテシオのGerard(2歳)がOrtelloに勝ったことかもしれませんが、あくまでそれは番外編。Ortelloの評価が大きく下がったとは思えません。

 

「休養明けになりますが、馬体はできていますね。

ふみこみもしっかりしていますし、なかなかいいんじゃないでしょうか」

Cavaliere d’Arpinoがようやく復帰したのは、一年後の4月。

Premio Ambrosiano (San Siro 2000m)でした。その復帰戦はパオロ・オルシーニを背に久しぶりの実戦を楽しむようにVince Nettamente(楽勝)しました。次戦はミラノ大賞の前哨戦ともいえるPremio Omnium(Roma 2,400m)で、フェデリコ・レゴーリ騎手が手綱を握り、ここも3馬身差の完勝。

 

この2戦を終えてもCavaliere d’Arpinoの調子は崩れません。脚元の不安も大丈夫そうです。さあ、いよいよCavaliere d’Arpinoの真価が問われる時がやってきたのです。この時代、ミラノ大賞はイタリア国内の最強馬を決めるレースでした。このレースに勝てば、Cavaliere d’Arpinoの評価は一変します。そして現役最強馬デ・モンテルのOrtelloとの対決を誰もが見たかったに違いありません。

 

ところがジュゼッペ・デ・モンテルはOrtelloをミラノ大賞へは出走させませんでした。よりにもよって、同月に行われるイギリスのアスコット・ゴールドカップへの参戦を表明。渡英したのです。この決断にイタリアの競馬ファンは大反発。テシオとデ・モンテルの対決は、サッカーのインテル対ACミランのような宿命のライバル対決です。どんな理由があれ、逃げだすなどとんでもないことです。

 

当然、デ・モンテルは批判の的でした。「デ・モンテルはCavaliere d’Arpinoとの対決よりも、イギリスのレースを選択したことをきっと後悔するだろう」ライバルであり、友人である当人同士たちがどう思っていたのかは分かりません。テシオは「最大のライバルがいなくて助かった」と思っていたかもしれませんし、デ・モンテルは「残念だけど、イギリスで勝利する最大のチャンスだ」と思っていたかもしれません。

 

ところが、これまでCavaliere d’Arpinoと違い丈夫でハードな調教にも耐えてきたOrtelloがイギリスでの調教中に怪我をしてしまい、ゴールドカップの出走を取り消したのです。この後Ortelloは二度目の凱旋門賞に挑みますが4着。結局、Cavaliere d’Arpinoとは一度も対決することなく引退しました。

 

「さぁ、ミラノ大賞のスタートです!」  

1930年6月23日。緑深きミラノ・サンシーロ競馬場にて、ミラノ大賞は開催されました。集ったのは国内外の名馬たち。分かるだけ調べてみました。

 

Cavaliere d'Arpino        4歳       Federico Regoli

Filarete                       3歳        A Rabbe              伊ダービー2着、ピサ賞2着他

Emanuele Fileberto      3歳        Verga                   伊ダービー、ピサ賞他

Guy Fawkes                 5歳        M Alternami        Prix eugene adam他 仏国より

Ostiglia                       3歳        E Camici              伊オークス他

Mino d’Arezzo              4歳        Evans                  Premio Natale

Giulio Cesare               4歳        Sumter

Ghirlandaio                 3歳        F Andor

Fun Fun                      3歳        Pietro Gubellini

Soredello                    3歳

Togliano                     4歳        E Watchins

 

※La Stampaの記事より妄想実況

先ず先頭に立ったのはGhirlandaio、その内にOstigliaとFun Fun、しかしFilareteのペースメーカーのSoredelloがGhirlandaioの後ろに付けて、一週目の直線です。ここで先頭はSoredello。Ghilandaio、Filareteそして完璧な折り合いを見せるCavaliere d’Arpinoはここ!4番手あたり。フランスのGuy Fawkesはこの集団の後ろ。そして、いよいよ最終コーナーに向かう名馬と名騎手たち!ここでSoredelloは一杯になったかGhirlandaioが並びかけていく、Cavaliere d’Arpinoも追いついたぞ!最後の直線、抜け出したのはGuyFawkes!しかしきたぞきたぞ!Cavaliere d’Arpinoだ!あっという間に抜け出した!1馬身、2馬身!圧勝です!2着にFiralete、3着はEmanuele FilibertoがわずかにGuy Fawkesの前か!?

 

 

第7回 ミラノ大賞 1930年6月23日

Gran Premio di Milano Milano San-Siro 芝3000m

結果(5着まで)

1着 Cavaliere d'Arpino    牡4歳   Federico Regoli 3:13:00

2着 Filarete                   牝3歳    A Rabbe               2馬身   

3着 Emanuele Fileberto  牡3歳    Verga                  

4着 Guy Fawkes            牡5歳    M Alternami       

5着 Ostiglia                   牝3歳    E Camici             

 

 

「魔法などない。ただ耐えるのみ」

 8月のある日、凱旋門賞を目指しての調教中Cavaliere d’Arpinoは再び故障を発生。テシオは決断します。もうこれ以上現役を続けることは難しいと。 Cavaliere d’Arpinoは生涯わずかに5戦。2歳は走れず、3歳はわずか一戦だけ。一度も満足な調教ができない中、そのすべてが圧勝の5勝。フェデリコ・テシオはこの未完の馬に対して「Migliore(これまでの中で最良)」と評しました。

 

いつの時点でインチーサ侯爵に「Migliore」と言ったのかは分かりません。また、自分の馬に対してほとんど評価することのなかったテシオが本当にそう言ったのかも分かりません。しかし、フェデリコ・テシオにもう一度巡り合いたい馬はどの馬ですか?と尋ねればCavaliere d’Arpinoだと答えても不思議はないと思います。それほどテシオにとってこの馬は後悔の残る名馬でした。

 

もし、Cavaliere d'Arpinoが健康な馬だったら。ハードな調教で完璧に仕上げることができたら。クラシックと凱旋門賞に出走できていたら。才気に溢れた芸術家が未完の作品に対していつまでも夢焦がれるように、テシオにだけは完成されたCavaliere d'Arpinoの姿が見えていたのかもしれません。

 

たとえNearcoがパリ大賞のゴールを駆け抜けても、Navarroがとんでもないレコードでミラノ大賞を勝っても、テシオの目にはその先で悠々とゴールするCavaliere d’Arpinoの姿があったのかもしれません。それは、たとえRibotをその目で見届けることができたとしても、その評価は変わらなかったと私は思います。

 

 Cavaliere d’Arpinoは1931年より種牡馬として活躍。伊セントレジャーのUrsone、伊オークスのPalladeなどを産み、1941年にはイタリア首位種牡馬になります。残念ながらその虚弱な体質が多くの産駒に遺伝してしまったようですが、Belliniはとても丈夫でDerby Italianoなどに勝利しました。BelliniはTeneraniを産み、そしてRibotへと続くことになりますが、それはまた別の物語。

 

参考