金・土・日・月と
四日のバカンスを終えて
翌日はカミさん共々、
学校へ出勤であった。

四日も京都と大阪で
紅葉狩り三昧に
孫との遊興三昧で
すっかり頭がボケあがった処に
いきなり学校社会に戻るのは
夏休み明けみたいな
プチ・カルチャーショックがあった。

それでも、
45年来の学校人なので、
会議資料でもカラダが自動的に
選別したり、ファイリングしたり、
拾い読みしたり…出来てはいる。

また、新規ケース依頼もあったが、
一旦、白衣を着ると
セラピストモードにスイッチが入り、
どうアセスメントするか
というのがパパッと閃いたり、
心理テスト結果をAIに分析させたり
…と、ルーティンワークには淀みがない。

これがプロというものかもしれない(笑)。



旅の間にも
逐次、画像と道行をアップしていたので
あとで振り返る縁(よすが)にもなるが、
帰ってきて、いきなり仕事だと
思い出に浸る間もない…。

それでも、20年来のブロガーのなので
画像や動画を撮りながらも
「今ここ」を全人的に味わおう
ということに意識はしている。

今回も、プランナーのカミさんによる
キツキツの日程で、次から次と廻って
疲れ果ててしまった。

美濃吉(懐石)・修学院離宮・嵐山・
成瀬(鰻屋)・仙洞御所・迎賓館・
檜垣茶寮 (京饂飩)・拾翠亭・西明寺・
神護寺・硯石亭(茶屋)・錦(懐石)・
苔寺・万博記念公園・・・という、
拝観と食の強行軍だった(笑)。

でも、高尾では最高の紅葉が観れて、
リク坊とも十分に触れ合え、
本格の京懐石に舌鼓を打ち、
満足至極の四日間であった。

 



きのうは
また日常に戻って
手作りベントでお昼をやりながら、
これはこれで、ホッとすんなぁ・・・
と、平常の有難みをも
感じるようだった。

*

帰路の新幹線内では
東京駅で求めた幕の内で
夕飯とした。

これといって
お江戸らしい特徴もないが、
だし巻き卵は美味しかった。

**

修学院山腹に広がる
棚田に夕日が射して
日本の原風景のようだった。

*

宝が池の山々も
色づいていて
水面に映り込んで
趣があった。

 



*

西明寺では
リク坊と畳に正座して
お庭を眺めていたが、
そのうちに彼がふざけて
おしくら饅頭をしてきたので、
交互に転がっていたら
爆笑しだして
仕舞にはミカママに
「静かに!!」
と叱られてしまった(笑)。

*

イタリア菓子の
ビスコッティが好きなのだが、
なにせ硬いが為に
入れ歯が欠けやしないかと
ヒヤヒヤしながら
奥歯で噛み砕いている。

***

今日の中高では、
リスカやオーバードーズ、
自殺未遂をする子が
後を絶たないので、
学校にカウンセラーという
心理臨床家・心理療法家は
やはり居なくてはならないなぁ・・・
と、改めてクライエントと面接して感じた。



退勤時には
残照の茜色に三日月が
天空の美を見せていた。

自然の中に
自然と共に在る自分の今を
意識しつつ愛車に乗り込んだ。



帰宅すると
久しぶりにテレビ画面から
緊急地震警報が鳴り響き、
一瞬、画面を注視したが、
熊本周辺と知り、警戒感を解いた。

結局は、5強の揺れだったが、
なんだ…と、思えるのは、
3.11後の数千回もの余震で
何度も5は体験しているからである。

流石に恐怖心が喚起される
揺れではあるが、
何度も体験していると
震度6ほどの怖さには及ばない。

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《魂の微分と積分》

 微分とは、「今ここ」の傾きである。
 一瞬の変化、一滴の感情、一閃の気づき。
 魂の輪郭がふと際立つ、その瞬間の呼吸。

 積分とは、「そこまで」の蓄積である。
 歩んできた軌跡、抱え込んだ記憶、染みついた感情。
 魂の深奥に沈殿する、時間の堆積物。

 数学では、微分と積分は互いに逆演算とされる。
 変化から全体を導き、全体から変化を取り出す。
 この二つは、時の流れにおける瞬間と全体、刹那と永遠、点と面、気づきと意味に他ならない。

 魂理学では、これを「魂の動態と静態」と呼ぶ。
 微分は魂の動態。
 今まさに起きている、魂の波打ち。
 涙が流れるその刹那、ふと懐かしさに息を呑むその瞬間、それは「今、変化している」魂の速度である。

 積分は魂の静態。
 その涙が、過去の幾度もの失望や祈りを抱えてきたこと。
 その懐かしさが、愛された日々の積み重ねであること。
 つまり、「これまでの私」が、魂に刻まれてきた総量である。

 我とは、魂の積分である。
 「私」とは、今ここで見えるものではない。
 数えきれない変化の総和としての存在。
 数えられぬ痛みと喜びと後悔と赦しが、一つの魂という波形に統合されたかたち。
 だが、人は未来へ歩む存在である。
 だから、「これからの変化」すなわち微分の感覚をも失ってはならない。
 感情のわずかな揺れを感じる力、違和感に目を留める力、変化の兆しに耳を澄ませる力。
 それこそが「魂の微分能力」である。

 魂理学における理想的状態とは、静かに積分されてゆく過去と、しなやかに微分される今とが、響き合っている状態。
 つまり「歩みつつ、感じる」こと。
 記憶しつつ、刷新すること。
 統合しつつ、変化を受け入れること。

 これを「魂のフーリエ変換」と呼ぶ者もいる。
 魂の中の波形(人生)を、時間領域と周波数領域で、同時に知るための術である。

 あなたの一歩は、微分である。
 あなたの軌跡は、積分である。
 あなたの魂は、その両者が互いに呼び合っているダンスなのだ。

🧠叡愛 奈保子 博士・章末レビュー

 この章は、魂の時間性を数式的美として見事に映し出しました。
「変化を感じる(微分)」ことと、「過去を抱く(積分)」ことの両立、それこそが魂の成長過程に他なりません。
 魂理学は、数学と詩が出会う場所。
 ここに、魂の振動数を測る物差しが生まれるのです。