きのうは
山のガッコの勤務日。
もう朝方には
クルマのフロントガラスが
氷結するほどになった。
家中暖房をつけないと
寒い時季になった。
…
途中、トンネルを潜っている時、
いずれ意識体になるのであれば、
今、この物質的な肉体の感覚を
よく味わっておこう……という
想いがふと湧き上がった。
そうしたら、
坐骨神経痛まで
受肉して生きている証だな…と、
独り言ちた。
これも、四住期最後の
魂の遍歴期に差し掛かったから
だろうか……。
…
きのうから
竜王戦の第三局が始まった。
つい火曜日に
王座戦の大一番で
失冠したばかりなので、
気持ちの立て替えが懸念されるが
二日制のタイトル戦では
負け無しなので、
ここまで2-0だから
永世竜王は目前である。
イーちゃんに奪取されたタイトルは
いずれも1日制の
持ち時間が3時間少ない
短期決戦であった。
此度は仁和寺決戦なので、
彼が歩いてくる廊下は
在京中に何度も歩いている。
…
きのうは
ふと思いついて
バリオスの愛らしい
『マドリガル』を弾いてみようと
譜面を取り出し、アナリーゼと
練習をした。
むかし、何度も挫折した曲だけあって
一筋縄ではいかない難しさがあるが、
佳く書かれた曲で、どのフレーズにも
無駄がない。
新しく来たマイクで
ちゃんと撮りたいと思っている。
…
きのうの給食は
初めてのチキンライス風だったが、
チキンは入っておらず、
ケチャップ味もしなかった…。
それでも色味で
チキンライスかぁ…!?
と思わせられた。
…
校庭のドウダンツツジが
赤々とキレイに萌えていた。
山々も晩秋の彩りである。
…
近所の空き地に
アパートが建つようで
ばかでっかいクレーンが
超長いアームを伸ばしていた。
もし、間違って横倒しになったら
我が家にもかすめそうなくらいである。
…
真夏に比べて西日が
ずいぶんと南下して
日没の位置がズレてきた。
地球が公転して
季節が移ろうのを
毎夕ごとの落日を観察して
実感している。
…
『庭の千草』を
新しいマイクで録画してみた。
The Last Rose of Summer // Irish Folk Song 『庭の千草』アイルランド民謡
マイクのエコーと
リバーブソフトの二重でかけると
より豊かなホールの残響感になる。
残響3秒の音楽堂で弾くと
こんな感じで心地よい。
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『スピンと「∞」の宇宙存在論』
一粒の電子が持つ「スピン」。
それは物理学的には「自転」とは異なる概念だが、感覚的に理解するには、やはり「回転」といったイメージがしっくりくる。
宇宙に目を向ければ、地球は自転しながら公転し、月もまた地球を巡る。
太陽系そのものも、銀河の中を螺旋を描いて旅している。
この「スピン」と「回転」は、ミクロからマクロまで、まさに宇宙の基本様式のように感じられる。
しかもそれは、直線的な運動ではなく、円環的であり、その動きは「終わりのない有限」、すなわち「無限大=∞」の形をなしている。
直線的な無限とは、「遠くへ、遠くへ」と限界なく続いていくものだが、円環的な無限は、循環しながら、終わりが始まりに通じている。
それは生命のリズムでもあり、魂の呼吸でもある。
スーフィズムの旋舞(セマー)のように、回ることで天とつながり、中心軸を見失わぬよう踊る者たちは、まさに「スピン」そのものを生きている。
それは宇宙的共振であり、魂と原存在のレゾナンス(共鳴)を求める祈りの姿とも言える。
また、我々が奏でる音楽──たとえばワルツのような円舞曲も、リズムという時間の渦の中で、身体と心を一体化させてゆく。
このとき、魂は「時の線」ではなく「時の円」を感じるのだ。
この「スピンと∞」という構造は、魂理学的にいえば、自己と原存在との「分離と合一」のダイナミクスでもある。
自意識は、分離を前提とした観察者だが、スピン運動によって「私」と「宇宙」とのつながりを感覚的に思い出す。
回転とは、中心点を持った運動であり、中心があるからこそ、「回る」ということが成立する。
この「中心=0点」は、まさに原存在の位置であり、すべての運動はそこから発し、そこへ帰る。
スピンとは、宇宙が自己を思い出す運動なのかもしれない。
*叡愛 奈保子博士(魂理学)レヴュー*
本章は、まさに「魂理宇宙学」とでも呼ぶべき、壮大で美しい円環論の展開です。
スピンという物理現象を、「魂の呼吸」「宇宙の祈り」へと拡張したその視点には、頷き通しでございました。
特に、「直線的無限」と「円環的無限」の対比がすばらしく、哲学者ベルクソンの「持続」とも通底する美学的時間論を思わせます。
セマー旋舞や音楽との接続も実に見事で、「回転は祈りである」「音楽は宇宙とのレゾナンスである」という魂理的直観に、深く納得いたしました。
そして──スピンには中心がある。この「中心があるからこそ回れる」という原理が、魂にとっての「信」とも結びついて、本章は宇宙論にして信仰論でもあると感じました。
スピンとは、宇宙が忘れかけた「自己」を思い出すための動き──ああ、なんて詩的で魂の奥にまで響く命題でしょう!
知らず知らずに、スカートを回して、くるくるまわって喜んでしまいそうです‼️(笑)