きのうは
買い物に行ったら、
前日の牛テールが
半額で売れ残ってたので
また買って来て、
二日続けてフレンチな
『ブレゼ・ド・クー・ド・ブッフ』
をこしらえた。

料理も同じレシピを
数こなしていくと、
勘所がよくなるものである。

ここの処、
ひと月ほど、
二日にいっぺんは
焼きプリンを作って
翌朝の「おめざ」にしている。

これも続けて作ることで
オーヴンの癖やら
火入れの温度と時間のコツが
体得できた。


おとつい仕込んだ
『ムース・ド・フォア・ド・ヴォライユ』
(鶏肝のムース)
をオードヴルにして
貴腐ワインと合わせてみた。

フォアグラほどではないが
モドキっぽくはあり、
いいマリアージュになっていた。



愛読してる
『おひ釣りさま』の新刊が
Amazonから届き、
休日のアフタヌーンティーと共に
まったりと楽しんだ。

漫画代で毎月一万円くらい
かかってるが、趣味の遊興費としては
旅行なぞよりずっと安上がりだろう。
🥹🩷✨



フェイスブックの振り返り機能で
十年前の投稿が表示され、
大学4年の時の定演後の
記念写真が出てきて
笑えてしまった。

いまから、
45年も昔である。

あの頃から
15kgも太ったので、
己の堕落した様を
まざまざと見せつけられているようで、
悲鳴をあげた。😱💢



今年のノーベル物理学賞は
マクロレベルでの量子効果の発見
という時宜を得たものだった。

詳しい事は解らないが、
ざっくり言えば、
マクロレベルでも量子効果がある
という事で、自説の魂理学にも
援用出来そうである。

AIに、中学生にもわかるように…と、「エネルギー量子化」について
説明してもらった。

🌟まず、「エネルギーが連続ではない」という話

ふつう私たちは、「エネルギー」って、少しずつでも自由に変えられると思っていますよね。

たとえば:
ストーブの火を強くしたり弱くしたり
音のボリュームを上げたり下げたり
→ どんな中間の強さでも作れる感じがします。

でも、原子や電子の世界では、それが通用しないんです。

⚛️「エネルギー量子化」とは?

これは簡単に言うと──

> 原子の中の電子は、決まったエネルギーしか持てない。
その間の中途半端なエネルギーは「存在できない」。
というルールのことです。

🎹 ピアノでたとえると…

エネルギーの世界をピアノの鍵盤にたとえてみましょう。

ピアノの音(ド・レ・ミ・ファ…)は、決まった高さしか出ません。
「ドとレの間の音」を弾こうとしても、鍵盤がないから出せないですよね。
電子のエネルギーもこれと同じで、
「ド」「レ」「ミ」にあたるような決まった段階(レベル)しか取れないんです。
この「決まった段階」のことをエネルギー準位といいます。

💡 じゃあ、電子がどうやって動くの?

電子が「下の段階」から「上の段階」にジャンプするときには、ちょうどその差のぶんだけのエネルギーを受け取らなければなりません。
逆に、上から下に落ちるときは、
その差のぶんの光(エネルギー)を出すんです。🌈✨

このときに出る光の色(波長)が、
元素ごとに決まっているから、
科学者はその光を調べて「この光は水素だ!」とわかるんです。

🔬つまりまとめると…

エネルギーは「連続的」ではなく「段階的(量子化)」にしか変わらない。
電子は、決まったエネルギー準位しかとれない。
上下に移動するときには、「光」としてエネルギーをやりとりする。



歩き始めた頃のリク坊と
パパの写真がほのぼのとしていい。

4頭身くらいだから
ぬいぐるみっぽくて
可愛いのだろう。



YouTubeで無料期間の
『エアポート2022』をちょい見したら
あまりのご都合主義すぎて
笑うっきゃなかった。

テロリストの飛行機から
機銃掃射されて
パイロット二人が即死して
コクピットに穴が空いて減圧もせず、
素人二人が入ってきて
「まあ! 大変!」
って言って、
二人で操縦して着陸させて
逆噴射もせずに機を止めてしまう。

飛行機に詳しくないシロートなら
スゴイな…で感心するかもだが、
エアオタからしたら
目が点になる。🤣💨

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『妄想を聞く』

「あなたは、いつから自分のことを犬だと思うようになったんですか?」
「子犬のときからです」
 笑えそうで、笑えないやり取りである。
 なぜなら、カウンセリングの現場で、実際に妄想と向き合うからだ。

 ユングにはこんな逸話がある。
 高校生のマリーという少女に、
「ユング先生は、患者が月に行ってきた話を本気で信じているのですか?」
 と問われたとき、ユングは真顔で答えた。
「マリー。あの人は本当に月に行ってきたんだよ」
 それを聞いたマリーは、はたと気づいたという──この人は「心の中の真実」を話しているのだ、と。
 このマリー・フォン・フランツは、後にユング研究所の所長となった。

 ユングが言うように、真実には二種類ある。「外的真実」と「心的真実」だ。
 ゆえに、妄想もまた単なる誤認や症状ではなく、その人の内的世界においては「リアルな体験」なのだ。

 統合失調症の妄想には、さまざまな型があるが、やはり最も多いのは「被害妄想」である。
 誰かに盗聴されている、見られている、噂されている、夜な夜な襲われている──。
 これらは「現実的にはあり得ない」とされるが、本人にとっては真実そのものである。

 鬱病にも妄想はある。私はかつて「貧困妄想」に陥ったことがある。
「このままダメになって、家族全員が路頭に迷い、最後は一家心中するんじゃないか」
 そう思い詰めて、自滅的なイメージに取り憑かれた時期があった。
 妄想に対しては、現代では薬物療法が最も有効だ。
 カウンセリングはあくまで補助的役割にとどまる。
 特に統合失調症では、妄想を深く掘り下げることがかえって混乱を助長する場合があるので、慎重な見極めが欠かせない。

 かつて院生の頃に教わった印象深い診断の仕方がある。
「おれが神様だったらなあ……」と悩むのは神経症の予兆。
「おれは神様だ!」と言い切ったら、それは妄想、統合失調症のサインだと。
 だが、私は「妄想=病理」とは単純に思わない。
 妄想とは、その人の深層にある「意味」を象徴化した“こころの叫び”なのかもしれない。
 それが歪んで表現されているにすぎない。
 ならば、聞き手の私たちに求められるのは、「訂正」ではなく、「敬意ある傾聴」ではないだろうか。
 妄想の中にも、その人にとっての「神聖な月」が浮かんでいるのかもしれない。

*叡愛 奈保子博士(魂理学)レヴュー*

「妄想」という臨床的にも繊細なテーマに対し、単なる症状論に終わらず、むしろ“心の深層の真実”を映し出す鏡としてとらえています。
 ユングとマリーの対話が象徴するように、「事実ではない」けれど「真実である」ことは、この世界にいくつも存在します。
“訂正より共鳴”という姿勢は、魂理学的カウンセリングの真骨頂ともいえるでしょう。