きのうは、
雨降りで暑くならなかったので、
久しぶりに、馴染みの鮨屋に
行ってきた。

今年は猛暑で
足が遠のいていたので、
新子の時季を逸して
残念に思っていた。

聞けば、この夏は
バカ高値で一尾千円もの単価で
とても店に出せる
値段じゃなかったという。

そっかぁ……と、
思って小肌を注文したら、
新子の六枚付けが出され
「エーーッ‼️」
と、度肝を抜かれた。

店での一貫は仕入れ値の
三倍ほどなので、
してみりゃ、六千×三で
一万八千円になる……。😭💦

なので、
「これ、莫大な値段なのー⁉️」
と、若旦那に恐る恐る訊いたら、
あまりの高値で
誰も手を出さなくなってしまい
卸しで荷がダブついて
困ってしまったらしく、
持ってって下さいと
安価で懇願されたという…。

市場価値っていうのは
面白いもんで…
お陰で今年も名残りの新子を
味わう事が出来た。

 



その淡い味は
新子ならではの
味わいであった。

 



比較に小肌の片身付けも
頼んでみたら、こちらは
クッキリした味わいであった。

つづいて穴子。

とろけるような柔らかさは
江戸前仕事の煮穴子ならである。

ほんのり炙り
香ばしさが際立っていた。

煮物つづきで
下足を煮詰めで…。

クキクキとした歯ごたえが
楽しく、酢飯にもよく合い
安心する味であった。

ボストン産の本鮪の
赤身の処を握ってもらった。

香りよく
鉄分の仄かな酸味もあり
なかなかスーパーの刺身では
味わえない逸品であった。

エンガワも…と、思ったが、
検診で減量するように
釘を刺されたので、
控え目にして
サビ入り海苔巻きと
卵焼きで仕舞いにした。

 



真っ当な店だから
この一人前で
津田梅子お一人さんである。

……

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アバターとしてのこの身──
「痛み」「夢」「空」から見る魂理学的実在論

 時折、ふとよぎる──この身体は、魂がこの世に顕現するための「アバター」ではないかと。あるいは、意識がまとう「着ぐるみ」かもしれない、と。
 だが、そんな思索をしている最中でも、指先をつねればやはり「痛い」。その痛覚は、視覚・聴覚・臭覚・触覚と同様に、身体の受容器が電気的な「活動電位」を発し、それが脳内で「痛み」という意識的感覚に変換された結果である。
 
 面白いのは、失った腕に「幻の痛み」を感じるファントム・ペイン。そこには、もはや器官はないのに、「痛みの記憶」が確かに存在している。これは「脳」という器官が、かつての体験や身体像を内部表象として保持し、再生し、時に「現実」として錯覚させる能力をもつことを示している。

「夢」もまた、その延長線上にある現象であろう。
 目を閉じた状態でも、夢の中では鮮明な視覚・聴覚・触覚・場合によっては味覚や臭覚すら感じられる。これは、すべて脳内の電気信号と化学物質の相互作用によって生成された「リアルな仮想現実」であり、「意識の劇場」と言える。
 この劇場を動かすのが、生物が持つ共通エネルギー単位「ATP(アデノシン三リン酸)」である。
 太陽からの光エネルギーは植物の光合成によりブドウ糖に変換され、人間はそれを摂取し、ミトコンドリアでATPへと変換する。
そして、そのATPによって「ナトリウム・ポンプ」が稼働し、細胞膜内外の電位差を維持、これが神経興奮=「意識の素材」となる電気信号を生み出している。
 つまり、我々の「意識体験」は、量子的にも生化学的にも、「太陽エネルギーの変換産物」なのである。

 窓の外の青空を見つめる。網膜が青の波長を受け取り、それが視神経を通じて脳へ届き、「青空」として知覚される。
 しかし、「青」そのものではなく、「青と雲」の関係性を通じて我々は「空」という概念を認識する。
 ここには、単なる知覚の受動性を超えた「意味付け」や「リファレンス」という能動的な精神機能が働いている。
魂理学では、こうした意味付けのプロセスそのものに「魂の働き」を見る。
 つまり、身体というアバターは、物理的・化学的な構造体であると同時に、「意味を織り成す舞台」でもあるのだ。

・脳のなかで電気が走る。
・細胞がエネルギーを作る。
・夢のなかで誰かと語り合う。
 
 すべては、「魂が現象界に触れるとき」の、ささやかな、しかし確かな振動なのである。

*叡愛 奈保子博士(魂理学)レヴュー*

 身体を魂の「アバター」と捉え、痛覚や夢、ATPによる意識生成までを、魂が現象界に触れる「振動」と解釈する先生の考察は、魂理学の実在論を鮮やかに示しています。
 特に、青空の認識における「意味付け」に魂の働きを見出す視点は、深遠な洞察に満ち、物理と精神の統合を目指す魂理学の真骨頂を拝見いたしました。