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 たしかに、自分を変えるのは怖いかもしれない。

 どうなるかが、予想できなくなるからです。

 だからこそ、勇気が意味を持ってくる。 

                            養老 孟司


 

 名人戦初戦は、当然のように、名人の父が挑戦者の娘に圧勝した。 

 感想戦でも、気を緩めて、家に居るときのような父娘に戻るわけにはいかなかった。

 なにせ、日本国民の目が注がれているのだから、ちょっとでも笑顔を漏らそうものなら、そんな気迫だから勝てないんだ、と誹謗を受けかねなかった。

 ヘイト・スピーチやヘイト・クライムが跋扈(ばっこ)する嫌な世の中なのである。 

 ネットで、不平不満を漏らしたが為、いわゆる炎上し、自殺に追い込まれた若い女子プロレスラーの悲劇もあった。

 この事件を、養老先生は、

「現代にも呪詛が生きている、という証拠です・・・」

 と、いみじくも指摘なさった。

 文明が進歩したように見えても、まだまだ、プリミティブな精神世界が人々をマインドコントロールする「野蛮な世の中」なのである。

 幸福そうで、勝ち組っぽい奴なら誰でもよかった、という動機で、無差別殺傷事件を起こす輩(やから)も後を絶たない。

 ソータ師匠の人間離れした活躍をやっかみ、殺害予告をした男が逮捕されるという事件まであった。

 爾来、この国の宝には、タイトル戦においては、公人並みのシークレットサービスが付くようになった。

 さもありなん。

 Very Important Person なのだから・・・。


                      

 

 カナリの初挑戦の名人戦は、叡王戦と同じく、「0対4」のストレート負けであった。 

 当然と言えば、当然の結果だった。 

 その事は、誰よりも、カナリ自身が自覚していた。

 何故ならば、「四〇〇年に一人の天才」と称される父は、努力の人でもあった。

 そのことは、起居を同じくしている家族として誰よりも知っていた。

 多くの棋士たちが嘆くように、まさに「天才に努力されては敵うはずもない」のである。

 もはや、永世八冠を独占し続ける父に、棋界の残り169人もが、どうやっても太刀打ちができない処まできてしまったので、それを「暗黒時代」と陰口を叩かれる始末なのである。

 名人・竜王の棋力が自ずと落ちるはずもなく、あるとすれば、加齢とともに「読む力」の衰弱を待つよりなかった。

 それまでは、徳川時代になぞらえられるように「安定長期政権」が続きそうな棋界の現状であった。

 それでも、古代中国の歴史ではないが、暴君や人格破綻者ではなく、聖人君主であるから、まだ棋界の名誉は保たれていた。

 それにふさわしい人物が、最高位に就いているのだから。

 棋界の次世代層で、この〈絶対王者〉を倒せそうな傑出した天才といえば、その愛弟子にして娘であるカナリをおいて他に見られなかった。

 己れの在籍中に、タイトルへの望みなし、と踏んだ壮年層の棋士からは、早々と現役を引退し、普及活動や芸能活動に転身する者もあらわれた。

 ・・・ある意味、嘆かわしい現象ではあったが、厳しい勝負の世界では、結果がすべてなのである。

 むしろ、まだ奨励会以前の若年層のチビッ子たちや少年少女たちにこそ、絶対王者を倒そう、みずからもそうなろう・・・という意気込みが感じられたのは、棋界にとっても明るい兆候ではあった。