
* 20 *
人間を構成している成分は、約1年で90%入れ替わる。
人間は、川のように流れ、移り変わる。
本当の自分など存在しない。
養老 孟司
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カナリは中学を卒業し、晴れて社会人となった。
そして、今日からは、中坊と棋士という二足の草鞋でなく、ひとりのプロ棋士なのだ、という自覚を持った。
しかも、自分は、棋界最強と言われる永世八冠の弟子にして娘なのである。
そのことを改めて意識すると、ブルッと身震いするように、気が引き締まった。
もう、今のカナリは「中学生棋士」でも「女性棋士」でもなく、芯からのプロ棋士、「勝負師」「真剣師」であった。
彼女の野望は、自分のみが知る「師匠の秘密」と同じく、まずはAIを撃ち負かすことであった。
そして、次に、師匠とタイトル戦を闘える実力をつける、という事だった。
夏休み中の猛勉強で、「大名人・大山康晴」の棋譜はほぼ手中にした。
ソータ師匠のデヴュー来の全棋譜もアタマに叩き込んだ。
でも、そのくらいのことは、169人ものプロ棋士は、誰もがやっていることだった。
いや、それどころか、まだプロ以前の奨励会員さえ、誰しもやっている。
なにせ、日本国中から集まった将棋の天才少年・少女の集団なのである。
最近は、そこに外国の碧眼金髪の美人研修生もいて、世間の話題となっている。
将棋が好き、努力研究は当たり前、の世界なのである。
並み居る天才たちの業界で、頭角を現すのが如何に大変な事か・・・。
カナリは、スランプ期にどん底を這いまわり地獄を見た経験があるので、「闘いの場」の怖さを誰よりも知っていた。
そして、師匠もデヴュー後29連勝後に、まったく勝てない時期があり、自分の将棋を見直したという。
棋界誌のバックナンバーを読むと、かつて、コロナ・パンデミックというのがあって、師匠は、高校が長期臨時休校になって、棋戦も軒並み中止になった時期、ひとり家に籠って、ひたすら自分の負けた将棋を研究しなおした、と書かれていた。
そして、その後に、変身したかのように強さを増したらしい。
この記事を読んで、カナリも、これまでの負け将棋をAIを使って徹底的に分析し、その「負け筋」と「勝ち筋」の両方をつかんだ。
そして、師匠にお願いして、特別にAIとの対局を観戦させて頂いた。
その棋譜は、世の中にはまったく漏れておらず、師弟のみが知る「奇手」「妙手」が繰り出される壮絶とも言える「不思議ワールド」の将棋宇宙であった。
カナリは、師匠がAIを撃ち負かす指し回しを目の当たりにして、その晩は興奮で、一晩中まんじりともできなかった。
凄い・・・。
とにかく、ものスゴイ・・・。
そのひと言に尽きた。
ネットでジョークネタにされる「将棋星人」という言葉が、まるで、洒落とも言えぬ真実を現わしているかのようにさえ思ったほどだ。
(異次元レベルの思考なんだ・・・)
と、カナリは床の中で、何度も師匠の放った妙手に酔いしれていた。
あんな将棋を自分も指せるのだろうか・・・と、思うと、そら恐ろしくなり、ブルッと身震いした。
でも・・・まだ、意識にこそ昇っていなかったが・・・
いつか・・・
いつか
やってやる!
してみせる!
・・・という、彼女にのみ培われたオーファン・スピリット(孤児魂)が、蒼い焔(ほむら)となって、こころの深層に燃え盛ろうとしていた。
